時々放談
by ryu-sei
「113年で最も暑い8月」(2010年9月2日)
― ひと夏の出来事 ―
苦しい8月が終わりました。新聞には「113年で最も暑い8月」の見出し。1898年(明治31年)の統計開始以来最高に暑い夏だそうです。 1898年と言えば、社会科教師的発想では「米西戦争(アメリカ・スペイン戦争)」の年。アメリカ合衆国が、カリブ海〜太平洋〜フィリピンのスペイン勢力を一掃し、南太平洋の覇権を確立して、旧スペイン植民地を我が物にした年。ハワイが、勢いに乗って調子づいているアメリカに併合されたのも、この戦争の最中のことでありました。帝国主義国家アメリカが一気に世界の強国としてのし上がった年。 もちろん日本も、まだ竜馬(NHKの「福山」竜馬が、フィクションたっぷりなのはわかっていても、面白くて、実ははまってます)が暗殺されて31年しか経っていないのに、帝国主義国家としてすでに台湾を植民地化し、次の朝鮮半島植民地化へと、膨張し続けていた時代。 1898年8月の世界はきな臭く熱かったのでしょうが、気温は今と比べればとても涼しかったはず。 この夏に、お世話になった方々の訃報も続きました。仲人、叔父、万象房ウクレレ教室の会員様、・・・・・。心よりご冥福をお祈り申し上げます。 ウクレレ教室の会員様は、長い入院生活から退院された時に、私に電話をかけてきて下さり、万象房へ戻りたいという事と、勿体なくも感謝のお言葉を頂戴し、私個人に対しても、「無理をしないように、体に気をつけるよう」にというお気遣いまでして頂きました。訃報を伺ったのがだいぶ時間が経った後だったのですが、後から考えれば、それが、お亡くなりになる直前のお電話だったことに気づき愕然とした夏でもありました。 この夏に亡くなった方の中に、お会いしたことは無いけれど不思議な縁を感じた方もいらっしゃいました。その方はフランスに日本の合気道を伝えるために尽力されていた方なのですが、かつて私の父のとても身近な年下の縁者で、フランスでの活躍を子供の頃から聞かされていたのですが、なんと、私のフランス人の友人ピエール氏の合気道の師匠がその方であることが最近判明し、その方の訃報も、この夏、ピエール氏から父へと伝えることになったのでした。父はそろそろ連絡を取ろうと思っていたところだったのでショックだったようですが、国境を越えて不思議な縁があるものだとつくづく思った夏でもありました。 夏恒例の夏山登山も、準備はしていたつもりでも、今までならどうということも無いレベルで、明らかに体力の衰えを感じて、ちょっと苦しいなぁと思ってしまった夏。経済的にも、出費ばかりで、テナント料を含めて諸経費を払ったら手元にほとんど月の残金が無かったというありえない苦しい8月。だから、万象房カルチャー受講者募集をどんどんやらなければ、と思っていても、いよいよ、多額の募集告知広告費捻出が大変な秋シーズン到来。「無理をしないように、体に気をつけるよう」に、がんばります。 |
梅雨時の雑感(2010年7月5日)
― 腰痛とドレッド・ノートとイギリスと ―
本は、家では、横になって読むのが基本です。不覚にも、寝てしまうことも無いとは言えませんが、もうずいぶん前に腰を痛めてから、整形外科でなるべく仰向けになって腰を伸ばした方が良い、という医者の言葉を都合よく解釈して、職場や電車の中や文章を書きながらでもない限り、横になって読む。 ところが、これが、ハードカバーの専門書の場合、かなり辛い。先日読んでいた、宮家先生の『神道と修験道』は全524ページで、重さ約850グラム。途中で家人に弱音を吐きました。ほとんど腕のトレーニング。その後読んだ、『中世を道から読む』(齋藤慎一)は講談社現代新書なもので、軽くてびっくり。(両方お勧めだからリンク貼ります) しかし、ギターは、横になってという訳にもいかない。しかも、自分のギターは、たぶん腰痛には良くないと思います。まず、ボディの大きなドレッド・ノート・スタイル。体の左右のバランスが弾いているうちに崩れそう。これをハードケースで運ぶのも危険な気がする。ギターにとってあんまり良くないかも知れないが、リュックサックのように両肩でしょえるケースじゃないと体に悪そう。 そのうち、もうちょっと小ぶりな気の効いたギターをフルヤギター工房に発注したいとはもう何年も前から古谷君には言っておりますが、いつになることやら。いずれにしても、万象房の累積赤字が無くなって、所謂、利益というものが発生するようになったらです。 でも、この1973年製の日本製ドレッドノートも愛着はあります。なんといっても、このタイプのギターのネーミングの由来が面白い!20世紀初頭の大英帝国海軍が、イギリス海軍の威信をかけて長距離砲弾の一斉射撃のために建造した当時としては「無意味に大きく見えた」高速戦艦こそが「ドレッド・ノート」だったらしいので。腰痛なんか、くそ食らえ、という「恐れ」を「知らぬ」意気込みで、しばらくは弾き続けたいと思います。 ※どなたか、「ドレッド・ノート」の模型を完成させませんか?日本海軍初のスーパー・ドレッド・ノート艦「金剛」(イギリス製)でも良いかも。坂本竜馬だって、強い海軍を夢見て生きていたのであります。ドレッド・ノート進水は竜馬暗殺の39年後のことだったようです。 その、イギリス生まれのスポーツ「フットボール」で、今、世界は燃えております。サッカー日本代表もそこそこの活躍をし、私も多少寝不足になりました。しかし、ここで、マスコミにもほとんど無視されているもう一つのフットボール代表が快挙を成し遂げているのに、新聞にもテレビのニュースにもならない!やっぱり日本のメディアは偏っていて相変わらずおかしい!スポーツも音楽も政治も国際情報も、結局そんな感じねとちょっと疑っていた方が良い。 ラグビー日本代表は、この6月のパシフィック・ネーションズ・カップで、世界ランク12位のサモアに勝ち、トンガにも勝ち、2勝1敗という久しぶりの好成績を収めていたのに。さすがカーワン監督です。因みに、こちらは、サッカーと違って、あんまりお金が動いていないから、大会公式ページで全試合見られます。ワールドカップ日本開催まであと9年! |
長谷観音(2010年5月10日)
― オンマカキャロニキャソワカ ―
長谷の観音様への信仰というのは、日本中を見渡せば見渡すほど、面白いのです。この5月も、鎌倉の花が美しい長谷観音が終着点だった万象房歴史地理ウォーキングの下調べで、学術系の難しいお話ではなく、皆さんにご紹介する何かわかりやすいネタはないかと調べていたら、文化財クラスの長谷の観音様を祭っているお寺のあるところの地名が例外なく「長谷」になってしまっているということを一覧表を作りながら再認識し、やっぱり面白いと思ったのでした。 こんなことは、長谷観音の研究者からしてみれば、どうって言うこともない当たり前な話なのでしょうが、右手に錫杖を持ってすっくとお立ちになっている長谷観音を下から見上げて感嘆の声をあげていると、なんとも言えない不思議な気持ちがするのです。 長谷観音のルーツの地である、大和国初瀬(奈良県桜井市)の古代仏「長谷観音」の信仰を全国へ広めたのは、火災の多かった長谷寺再建に向けて資金集めに奔走した聖(ひじり)たちであろうと言われております。彼らが、何波にも渡って全国を駆け巡り、長谷観音の霊験を説き、地方における拠点には、スポンサーを募ってそのお姿をコピーした長谷観音を祭っていったことは、確かに想像できるストーリーであります。 彼らが語り広めた、長谷の観音様の素材は大和の長谷観音と「同木」で、日本で最も歴史があるはずの巡礼「西国三十三観音巡礼」の伝説上の始祖「徳道上人」が……、という日本中の長谷寺で説かれる縁起も、これまた、あまりに同じ過ぎて面白いのであります。 北は青森県にある「長谷」も、福島県にある「長谷」も、佐渡島にある「長谷」も、関東は茨城県にある「長谷」も、厚木にある「長谷」も、鎌倉にある「長谷」も、西は三重県にある「長谷」も、福岡県にある「長谷」も、宮崎県にある「長谷」も、漏れなく長谷寺があって「長谷」なのでした。 そうなったのも、宗派や本山・末寺制度が成立する以前のずーっと古い時代の事なんだろう、というのは、長谷寺群の宗派が、真言宗や、浄土宗や、曹洞宗やとバラバラで、もう昔から「長谷」という地名なんです、となってしまっている現状からして、日本の歴史と文化の面白い一現象だと思うのです。こんなことも学校の教科書に載せたら良いのにと、よく思っておりました。 長谷寺 ご詠歌 |
またボブ・ディラン(2010年3月30日)
― ホール! ―
3月29日(月)、定休日ならということで、ボブ・ディランのライブに、万象房の常連の皆様に誘って頂き出かけてまいりました。帰ってから、箱に溜め込んでいた過去に聴きに行ったライブのチケットを整理して眺めてみたら、大ホールクラスでの有料ライブに自主的に出向いたのは、1993年以来であることが判明してびっくり。もちろん、ライブにはしょっちゅう出向いておりましたが、演奏者とコミュニケーションが取れる小さなライブBAR的な所で飲みながら聴くのじゃないと楽しめない体になっていたのです。それに大きなコンサートは料金も高いですし(よく考えれば、広いところは人が沢山入るのだからむしろ安くすべきなのですが)、こちらは正直今収入がないのでお金もありませんし。 因みに、その1993年に出かけていったライブは、「ネヴィル・ブラザーズ」(ニューオリンズファンク)/「千僧音曼荼羅」(真言宗豊山派の声明)/「上々颱風」(東アジア無国籍ジャパニーズポップ)でした。この年の春、僕は大ホール以上の会場に自主的に出かけることを止めたのでした。ただ、年寄りになったからだけかもしれませんが。 なんだか楽しくなってきたので、チケットを並べて年代順に整理開始。 1992年は、「スティール・パルス」(ブリティッシュレゲエ)/「タワー・オブ・パワー」(サンフランシスコ周辺ベイエリアのブラスバンドファンク)/「林英哲」(創作和太鼓…うちの菩提寺のご住職の弟さん)/「ヌスラット・ファテ・アリ・ハーン」(パキスタンの陶酔系宗教音楽カッワーリ)/イベント「レゲエ・サンスプラッシュ」(レゲエ)/「サリフ・ケイタ」(アフリカンポップ)/「イズラエル・ヴァイブレーション」(レゲエ)。レゲエが多い。思いっきりワールドミュージックの時代が反映されています。 1991年は、「オールマン・ブラザーズ・バンド」(アメリカン南部ロック)/「マキシ・プリースト」(レゲエポップ)/「アスワド」(ブリティッシュレゲエ)/コートニー・パイン(レゲエジャズ)/イベント「レゲエサンスプラッシュ」(レゲエ)/イベント「レゲエジャパンスプラッシュ」(レゲエ)/J・D・サウザー&カーラ・ボノフ(アメリカLA系シンガーソングライター、もちろん最近流行の「The water is wide」が一番のお目当でした)/りんけんバンド(沖縄ポップ)。相変わらずレゲエが多い。 1990年は、ちょっと少なくて、「ローリング・ストーンズ」(!)/「ポール・マッカートニー」(!)/「UB40」(ブリティッシュレゲエ)/「ライ・クーダー&デヴィッド・リンドレー」(!)/「POCO」(アメリカンウェストコーストロック)。これを80年代以前に遡ると量が多くて収拾がつかないので、今回はここで整理終了いたします。 しかし、久しぶりに行った大ホールライブ。全曲オルガンを弾くボブ・ディラン。もちろん良かったのですが、オール・スタンディングで満員電車のように詰め込まれて、ああいう会場はやっぱりちょっともう勘弁ですね。ホール並の広さで「初のライブハウスツアー」と言われたってそれは詭弁でしかないでしょう。だいたい「ライブハウス」という言葉自体日本語じゃないか!ところで、ボブ・ディランも万象房に来てくれたら良いのにって誰か言ってました。アンコール一曲目はこれでした。 ♪ How does it feel How does it feel |
Invictus(2010年2月16日)
― World In Union ―
久しぶりに映画を見ました。『Invictus / 負けざる者たち』。ラグビー映画ですもの、見なくちゃと。日本がニュージーランド・オールブラックスに記録的大敗を喫してしまったあの第3回ワールドカップ南アフリカ大会がその舞台。あの時の日本代表には、相模台工業高校(台工)ラグビー部OBの井沢選手も、筑波大学ラグビー部OBの薫田選手も梶原選手もいたのでした。観ているうちに、そして家に帰ってからも、だんだんあの頃の記憶が蘇って来ます。 あの年のお正月、第74回全国高等学校ラグビーフットボール大会に神奈川県代表としてトーナメントを勝ち上がっていた台工ラグビー部の応援のため、大阪の花園ラグビー競技場に行っておりました。自分が担任を持っていた機械科のクラスにもラグビー部員がいたし、当時の主将は、現在もトヨタ自動車ラグビー部の中心選手として活躍している機械科の難波君でありました(彼もその後2003年のワールドカップ・オーストラリア大会の日本代表)。そしてその花園で、相模のオールブラックスと言われた台工ラグビー部は、前年に続き二度目の全国制覇を成し遂げたのでした。 相模大野の街角では新聞の号外が配られ、商店街でのパレードや祝賀会や記念行事もあって大騒ぎでした。その時に普通科職員室(工業高校には全体職員室は無くて、教科毎に分かれています)で、選手のみんなに書いてもらったサインボールもまだ家にありました!半分はふざけた事ばかり書かれていますが。 その4ヵ月後に、そのワールドカップ南アフリカ大会が開催されたのでした。アパルトヘイト政策が完全に撤廃されてからわずか1年。未だに大変な負の遺産に苦しんでいる南アフリカの出発点になる国際的ビッグイベントの裏側で繰り広げられた、人間の良心と希望に訴えかけるドラマ。ラグビー・プレイが素人臭かったけれども、クリント・イーストウッドはアメリカ人なのになかなかやります。USAに染まっていない所が良い。 子供の時、最初に出会ったイーストウッドは「♪ローレン、ローレン、ローレン」の60年代西部劇テレビドラマ『ローハイド』で、80年代、カリフォルニアに旅した時はちょうどクリント・イーストウッドがカーメルの市長をやっていた頃だったか?訪ねた中で一番きれいな町だったような印象があります。最近は滅多に観ない(観たくない)アメリカ映画の中でも時々観てしまっているクリント・イーストウッド作品。 1990年前後は反アパルトヘイトの機運が国際的に高まった時代で、テレビ・新聞をはじめとするマスメディアはもちろん、学校の教材にも南アフリカ情報が溢れていました。獄中のネルソン・マンデラをシンボルと仰いでいたANC(南アフリカ民族会議)所属の亡命ミュージシャンやダンサーたちによる歌舞団『アマンドラ』の日本ツアーも行われていました。 その公演で「反アパルトヘイト」を訴えるアフリカ人パフォーマーの圧倒的な迫力とリズムの洪水に圧倒されたのも、南アフリカ・ワールドカップと重なる記憶であります。あれは相模大野グリーンホールだったかしらん?そして、次はサッカーの2010年ワールドカップ。南アフリカの未来のためにも、成功を祈りたい。 ところで、この映画では、ホルスト『惑星』の中の「木星」の歌付メロディーが効果的にクライマックスを盛り上げるのです。1991年、第2回ワールドカップ・イングランド大会以来のテーマ曲「World In Union」。日本では平原綾香が21世紀に入ってヒットさせた「ジュピター」としてお馴染み。もちろん歌詞は違いますが、雰囲気そっくりのアレンジもあります。2019年に開催される日本ワールドカップでは、誰がこの歌を歌ってくれるのでしょうか?楽しみであります。 ♪ There's a dream, I feel |
年末年始雑感(2010年1月6日)
― 再び、上を向いて歩こう ―
年末は歩くのに気持ちの良い季節。なにしろ、空気が澄んでいて展望が素晴らしい。万象房3周年記念ウォーキング&中華街宴会。かつての「本牧アメリカ村」から「山手」そして「元町」、最後は「中華街」。江戸時代前期の地図と明治時代初めの地図を皆さんにお配りして、幕末から戦後にかけて外交史に翻弄された日本でも超特殊なエリアを歩いてお腹を空かせてチャイナタウン。江戸時代の地図では中華街は海の中。今はニューカマーがますます増えてここ10年でずいぶん様変わりしている中華街。お店もずいぶん入れ替わっています。 以前、山の論文や本を書いていた頃は、毎週月曜日を山行日と決めて、日帰り・泊あり問わず、毎週山に登っていたのが、今は年に何回出かけられるか。でも、年末、久しぶりに大山三峰に登る。出来れば丹沢主脈を縦走したかったけれど、同行の友人の都合がつかないので日帰りコース。風が強いせいか、人には滅多に会わない。それがまた良いのです。やっぱり楽しい。 山の遭難のニュースもあちらこちらで。右京さんのパーティも。心より合掌。以前、右京さんにちょっとお世話になったことのあるうちの高校生もめったに見ないニュースを見ている。富士山で登山パーティが冬季訓練登山で遭難した例は今までにも数多いけれど、ここまで騒がれるのはやっぱり右京さんの知名度が格好のニュースターゲットになったのだと思います。命をかけてぎりぎりの事をやっているのだから私にはこういうこともあるとしか言えません。素人の訓練とはレベルの違う環境を求めてやっているのだから。広島さんが生きていたら何て言うだろう? 日本の人口が減り始めました。日本の人口のピークは2004年の1億2778万7千人。あと10年ちょっとすると1億2千万人を割るらしい。いつかはそうなると思っていても、現実となるとついに来たかという感じ。40年後には1億人も割るらしい。いろいろあって子供が少ないのだからしょうがない。 元旦に、実家で久しぶりにマムシとご対面。かつて僕の父親は山歩き中にマムシを見つけると捕まえてくること度々。そんな話をしていたら、出て来た。梅酒用の大きなビン中で度数の高い焼酎に漬かって当時のまま。ラベルには「昭和58年 加入道山」。西丹沢のマムシだ。焼酎はだいぶ減っているから客人にはずいぶん飲ませたのだと思う。(自分で飲んだという話は聞いたことがありません) 本日、車を購入約束。オダサガの自動車屋さんでもと教え子の芦沢しんちゃんに頼んで中古車を売ってもらうことに。8万円ぐらい!?諸経費はもちろん別。何しろ、今まで乗っていたプレーリーはもう20年近い。よく乗り潰したといった感じのポンコツ。いつ走らなくなってもおかしくないと言われていても愛着あり。その前にカッコ付けて乗っていたワーゲンも良かったが、このポンコツは七人乗りで思い出が一杯詰まっている。いよいよさようなら。 世の中大不況です。日本の実質国内総生産(実質GDP)のピークは今のところ2007年、561兆3562億円。もしかしたら今後増える可能性もあるかもしれないけれど、世の中不況が続いている。私もあなたもみんな苦しい。「年収が減ってきました」と年賀状に書いてきた友人がいました。自分も含めてそれどころじゃない人がたくさん。でも今年もがんばろう。 ♪上を向いて歩こう 涙が・・・・・♪ |