中世の丹沢山地 史料集 index

 『大山縁起』(真名本)(中世前期)


「・・・・・・・・・・・・・・・・前略・・・・・・・・・・・・・・・
據國西隅有高山。即今大山也。郷党相傳曰。當初山頂發五色彩光。照房總相三國。國人霧集競登彼山。曾無佛像。遙至山頂。刋拂草葉。堀得不動明王石像。前有石鳥居。不可思議之事也。良辨聞之尋登之。伏辨山形。有二重瀧。瀧上有岩窟。窟前有石鳥居。童子來現曰。汝未知石鳥居後山頂生身不動明王座乎。良辨受此訓至山頂。修祕法三七日。初七日現倶利迦羅龍王。中七日現二童子。後七日現三尊。不動明王。即説偈言。
  當來導師慈氏尊  法華示生名良辨
  我山建立作佛事  未法衆生施安樂
良辨忽感玄應。勇鋭至誠。明王重告良辨而説偈云。
  此地清淨爲結界  迷多衆生不來住
  東南兩十限八町  我形像作爲本尊
爾時童子化現示曰。此山面南有大■
(「木」の右に「親」)。剪其木模尊體。是霊木也。良辨歓喜合掌。尋至其所。紫雲靉靆。覆壽霊木。良辨祝曰。末世衆生可頼利益者。表一異瑞致祈祷。俄而東西無風。南北鋪枝。乃伐其木。自彫刻本尊。一毎下斧。三至禮拝。又此木漸判伐之時。自飛落留瀧水上。黒雲圍遶。龍神守護。紫雲亦對峯。騰遏山中間。今中堂是也。木落降瀧者。今閼伽井瀧也。或■(「にん偏」の右に「爪かんむり」に「冉」)以此木製四十九院本尊。爾時金剛童子以偈告曰。
  是山五佛表形像  五大明王當守護
  一度参詣得壽福  家内安穏無諸病
事既蔀異。良辨奏公家。天皇勅爲御願寺。乃■(「益」の右に「蜀」)安方上總相模三国入調正税。以爲寺用矣。良辨崇闡佛閣。弘通法門。讀誦法華。此山累功。執金剛神來以偈告白。
  四十九院當現前  即是都率爲内院
  一切天人皆影向  權實二類咸守護
爾時四十九院忽然現出。亦曰。良辨者彌勒菩薩之化身也。四十九院規■(「莫」の下に「手」)之。摸置此中。

(以下四十九院名が記されているが省略)
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山下至山上。森羅竝甍。荘厳美麗。僧菴三千。■(「4画のしんにゅう」の右に「也」)々如櫛。立顕密二法。今煽箇處梵唄之音。晨夕永傳。巳移兜率之位。遙契慈尊之曾。常院讖圖本尊之壇様等具在別記矣。上人行本宮山。無水不便。咒以三鈷杵穿石。石竇引溜。湧出不絶。若人洒掃。水失却。亦洒掃止時亦如故。今本宮閼伽井是也。上人詣瀧法楽。大山震動。雷電灼■
(「火へん」に「龠」)。瀧浪激。大龍浮出。龍収逆鱗。對上人曰。我是當山守護深沙振邪大王也。又云。荒神淹染五濁。迷法性理。乃受上人法施。巳覺往昔誓願。利益衆生。齊得安楽。重説偈曰
  瀧水早下顕智水  衆生煩悩洗重穢
  一切諸魔皆退散  今世後世得自在
上人因行多婆天位。今二重瀧也。謂之不増不減瀧。當山霊所異迹衆矣。二重瀧下有瀧。曰雷瀧。瀧形如■(「サンズイ」の右に「賣」)吐浪。瀧鳴雲起。不崇時而雨。瀧前有方丈異石。夾在浪表不生苔。石而粧如銀鐐。名御坐石。龍神所居之石也。傍有瀧。五山周■(「一」の下に「巾」)錯峙。配五大明王。其一曰雷嶽。若人登之輙震死。雷嶽下有岩窟。幽深亡能究奥。曰蝙蝠岩屋。伏翼群翔因。以名之。有鐘。或現或失。在人語傳。古昔四十九院之例。動撞此鐘。同時驚覺之鐘也。本宮有化池。或現或失。恒有神。名石尊権現。本宮東北有岩窟。名金色仙窟。以金色仙人優遊也。五大明王兩界大日坐。岩窟東有高山。名妙法嶽。本願聖人奉納如法法華経一部。故云。一仙人常影向現此嶽。讀誦法華。讀誦法華音聲于今不絶。時聞故云。西下有仙窟。諸仙之遊栖地也。有奇峰。名祖母山。常遭仙人。不遠而有嵩。名大日嶽。次有岩窟。窟内兩部大日坐。次有聖天所坐深洞。南下有高岩。名不動窟。次有塚。名十羅刹塚。仙人恒顕現。次有嵩。名烏瑟嶽。次有嵩。名石遲草嶽。有巌洞。其高三丈餘。岩戸前有石壇。壇上三本莽。左右雙立。正身不動明王坐。次有瀧。名両部瀧。阻山北有瀧。瀧高七丈餘。是爲金剛界瀧。時々放圓光。對胎蔵瀧有高岩。下有仙窟。列眞之所都也。有振鈴之聲。今聞。有岩窟。亦有霊石。表五佛形。或華厳般若峰。或法華方等異岩。呈神瑞。教岩標法。如斯秘所。萬々相傳。有別説。上人登峰。斗藪三十五日也。
・・・・・・・・・・・・・・・後略・・・・・・・・・・・・・・・」



 『大山縁起』は丹沢山地の山中の様子を伝える最古の文字史料です。小島瓔禮氏が指摘しているように鎌倉時代に近い頃の成立と思われます。ただし、「良辨」と記されている開山上人が途中からは「上人」になっているという不自然な点もあって、もともと別に存在した文章を一つに編集したという印象を受けることは否めません。

 一般に良く知られている大山縁起は、開山上人「金鷲行者」良弁にまつわる霊験譚を物語草子風に語った仮名本で、ストーリー展開の面白さに定評があります。室町時代の終わり頃から始まった一般民衆の巡礼行動に対応できるように唱導用に編集し直されたのでしょう。真名本に記されていた山内や行場の説明(上記史料)はほとんどが省略されてしまいました。

 山岳寺院の中世の古い縁起には共通の特徴があります。地形表現が妙に具体的なのです。中世の山岳寺院では、その一山組織に所属する堂衆たちの多くが修験者となっていました。彼らは行場である自然空間に宗教的意味付けをし修行します。その空間認識を修行者間で共有するためにも、具体的な地形表現とその意味付けのテキストが必要だったと思われます。

この『大山縁起』にも大山山頂「本宮」からスタートし、丹沢表尾根から主脈を回峰して仏果山・塩川の谷・経ヶ岳の山塊に至る峰入りルートが記されています。それは近世の日向修験と八菅修験の行場を包括するような修行空間であったことがわかります。(※1)

 それにしても、中世の大山修験が書き残した地名のうち、現在でも地名として伝わっているのはごくわずかしかありません。「大山」「二重滝」はともかく、「華厳」は今の「華厳山」に伝わっています。特に興味深いのは「法華方」です。愛川町の「法華峰林道」がなぜ「ホッケノミネ」ではなく「ホッケボウ」なんだろうと不思議に思っていましたが、『大山縁起』は「法華方」と記しています。「ホッケボウ」は丹沢山地でも特に古い地名だったことがわかります。

 この史料の翻刻は以下にあります。
・小島瓔禮『神奈川県語り物資料―相模大山縁起―』(神奈川県教育委員会、上1970・下1971二巻・・・・・小冊子ながら、現存する原典すべてを比較した上での翻刻、読み下し、諸論考が素晴らしく、ぜひ復刻を望みたい書です)
・『続群書類従』(二十七下)
・『伊勢原市史 資料編 古代・中世』(伊勢原市 1991)

※1
拙稿「地方霊山の入峰空間と寺社縁起―丹沢と大山寺修験―」『山岳修験』第39号 日本山岳修験学会 2007
拙著『丹沢の行者道を歩く』白山書房 2005


(2006/5/28 城川隆生)
【参考】『今大山縁起』丹沢大山修験両部瀧(塩川の谷)『長井貞秀書状』
大山山頂遺跡〔「大山調査概報」と「大山の話」〕