中世の丹沢山地 史料集 index

 『長井貞秀書状』(徳治二年 1307年)
(金沢文庫文書)

「      此縁起南殿御方可令入見参候歟、
       賀嶋五郎左衛門尉下向之由承及候、
       必定候哉、未被見來候。不審候、
       倉栖掃部助同下向之由承及候、
       未被見來候、不審候、


一日給御文候之處、境節出仕候て、不申御返事候、背本意候、
大山御参詣候し之條、殊悦入候、彼御縁起一巻借進之候、
兼又三嶋御精進之間、心經法自明日十五日分供料、沙汰進之候、
又大般若一部供料、同沙汰進之候。御轉讀候て、如例三嶋社
御法楽候者喜入候、心事期拜謁之時候、恐々謹言、

      三月卅日                貞秀
   明忍御房                               」

 
(ウハ書き)
 「  
(切封墨引)
  明忍御房           □□」



 『大山縁起』(真名本)の成立が鎌倉時代に遡ることを傍証する史料です。もちろん以前から神奈川県史や伊勢原市史の資料編で『大山縁起』のことが記されている旨、指摘されていたのですが、今年、神奈川県立公文書館の川島敏郎氏から『伊勢原の大山道と道標−再発見大山道調査から−』という伊勢原市で行われた川島氏のご講演レジュメをご恵送いただき、その中でこの史料の重要性をご教示頂きました。そこで、あらためて注目しておく必要があると思いご紹介することにいたしました。

 長井貞秀は大江姓で大江広元の子孫、鎌倉幕府の引付頭人長井宗秀の嫡子、兵庫頭。母は北条(金沢)実時の娘。金沢文庫には、長井貞秀が金沢貞顕・明忍房釼亜(称名寺長老)と密接な交流をもっていたことを示す紙背文書群が大量に残されていてこれもその一つです。(※1)

 鎌倉幕府の中枢にある要人たちの周辺で『大山縁起』が読まれていたこと、しかも貸し借りまで行われていたこと、大山へ参詣に向かう人々がいたこと、がここから分かります。勧進聖の本締めとして畿内でも大事業を指揮してきた願行房憲静による大山寺再興事業の一環として『大山縁起』が作成されたのではないかという川島氏の指摘も十分に首肯できるものです。

 ただし、『大山縁起』(真名本)のコンテンツが、弘安年間の大山寺再興事業によって創造されたものばかりとは言えません。『大山縁起』(真名本)ではストーリー展開上、本尊の不動明王が木造でなければ辻褄が合いません。願行房憲静の再興事業で鋳造されたと伝えられているのは、現在のご本尊である鉄仏不動明王です。『大山縁起』(真名本)はそれまで伝えられてきた諸伝承をまとめて新たに編纂したものと考えるべきだと思います。

 『大山縁起』(真名本)に叙述されている丹沢山地の広域修行エリアを、大山寺の勧進僧たちは大都市鎌倉でどのように語りながら活動(再興資金調達)していたのか?その場でその地形説明をぜひ聞いてみたいところです。勧進僧の中には願行房憲静が引き連れてきた外部の勧進聖集団もいたでしょうし、山内の修験的な堂衆たちもいたのではないでしょうか。彼らが語り広めていったであろう「朗辧」と「染屋太郎大夫時忠」が「鎌倉郡由伊郷人」でなければならなかったのは、この大都市での勧進活動に合わせるためで、その出自の地を相模国中央部から鎌倉へとアレンジしたのかもしれないなあと想像したくなります。

 この史料の翻刻は以下にあります。
・『金沢文庫古文書』 609号
・『鎌倉遺文』 22910号
・『神奈川県史』 1583号
・『伊勢原市史』 87号

※1 永井晋「長井貞秀の研究」『金沢文庫研究(第315号)』 金沢文庫 2005
   同 『金沢北条氏の研究』 八木書店 2006

(2011/11/8 城川隆生)
【参考】『大山縁起』