中世の丹沢山地 史料集 index

 大山山頂遺跡 (平安時代前期〜江戸時代)
〔「大山調査概報」と「大山の話」〕


(「大山調査 概報」より)

赤星直忠「大山の話」 『かながわ文化財』第73号 神奈川県文化財協会 1977年(昭和52年)
                         〔1974年(昭和49年)10月5日、神奈川県立博物館での講演記録〕

「・・・・・・・・・(前略)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 山頂での調査状況を申しましょう。山頂には山頂をひとまわりすることのできる路があり、「むかいまわし」とよんでいますが、東京大学の三人の学生はこの路から上の測量をしました。私たち横須賀考古学会グループの四人が二班にわかれ、三上班には岡本勇(先だってまで立教大学助教授をしていたのが今青山大学他の講師になった)・斉藤彦司(今本館学芸員になっている)両人が手伝い、赤星班には神沢勇一(今本館学芸員になっている)・小川裕久(今県文化財保護課第二係長になっている)両人が手伝いました。山頂は左半分が森になっており、右半分が平らにされていてその中に茶店があったりベンチができたりしています。三上班は森の中を調査しました。径三〜四メールある塚が三つあります。一の塚・二の塚・三の塚と仮によびました。一の塚から二の塚にかけて真中に一直線に幅一メートルの溝をほりました。溝の長さが一七m。浅いところでも深さ一メートル二〇センチぐらい。深いところは一メートル五〇センチくらいほりました。上に草や木の根が入っている三〇センチばかりの層がありその下に黒い砂の入っているところがある。これはご承知の宝永火山が噴火した時降った火山灰の層です。その下三〇センチくらいはいろいろまじった土があり、その下にまた黒土層が二〇センチから三〇センチあり、その下は三〇センチくらい褐色層になって、その下がローム層になっていました。塚と塚との間が七〜八メートルありますが、その部分の断面約一〇メートルくらいの間は層がよくつかめないんです。右側の塚と左側の塚は層がよくわかるんですが、真中には層がないんです。それは後で流れこんだ土なんですから層がなかったんです。掘ったときには塚と塚との間のくぼんだ部分では赤土から若干あがったところから寛永通宝が出ています。寛永通宝は江戸時代のもので、こんな深いところからでたということは江戸時代にここまで掘ったことがあるということです。二七〇年前の宝永年間降った火山灰が上の方にあって、その下一メートルくらい下から寛永通宝がでたんです。これは塚を作るとき周りをほった土を盛り上げたから塚と塚との間はひどくへこんでいた。雨に流された土でそれがいつか埋もれてしまったのです。掘っている間に寛永通宝は一五〜一六枚でましたし、江戸以前の銭である中国銭も五〜六枚でました。江戸時代には寛永通宝にまじって中国銭も使われていましたから、中国銭がでたからその部分は古いときめられません。左側の塚の底からは何もでませんでしたが右側の塚では褐色土の上の黒土のすぐ上から縄文土器のかけらがひとかたまりでてきたんです。こんな山頂から縄文土器片がでるのは珍しいので周りを拡げたんですが、ひとかたまりでただけでほかには何もでませんでした。普通ですと人が住んでいて、使ってこわれたものをそこに捨てるんですから、破片がつなぎあわせられますが、ここから出たものは接着してももとの形になりませんでした。当時私たちの調査を友人である小田原の山伏の人が見学に来ていましたが、「それは山伏が埋めたんだ。山伏は塚を作るときにその中に珍しいものを入れて作ることがある。これは山伏が入れたんだ。」といいました当時私たちは納得がいかなかったんです。この土器片は大体三〇〇〇年くらい前の人が使ったものなんです。笈を背負って登山したと思われる江戸時代の山伏が山頂に塚を作ることは当然あったんでしょうが、その底に古代土器片を埋めたなんて考えられなかったんです。ところが今度話をするため、その時代作られた断面図を検討しましたところ、真中の塚の底にある黒土というのはもとの山頂の地表面だとわかったんです。地上に土器片をひとかたまりにして置き、周囲を掘った土をその上に盛りあげたものだとわかりました。小田原の山伏さんが言ったことは本当だったんです。なぜ山伏がこんな古いものをもってきて塚に入れたかはわかりませんが、おそらく珍しいものだからということだったと思います。

 長さ一七メートルの溝をほった少しわきに別に一メートル四方くらいの穴をほって調べてみました。ところがその穴の深いところ、縄文土器片のありましたのと同じ黒土の上から寛永通宝がでてきました。ですから塚の底になっている黒土は江戸時代の地表面だということが証明されるわけです。江戸時代の初めころ山頂に山伏が塚を三つこしらえたことがわかりました。それ以前には平安時代の半ばから終りにかけて山頂の大岩のまわりに経を埋めた甕を埋めたこともわかりました。

 私たちのグループは茶屋付近を掘りましたが戦後ごみ穴を作るため掘りかえしてしまってあることがわかりました。でも根気よく掘りつづけました。茶屋の真前に幅一メートル長さ一五メートルの溝を掘りましたが、何も出ませんでしたので、それに直角に一〇メートルの溝を作りました。一〇メートルの南半分にかかったところで土師器のかけらがでてきました。土師器は皿より深い器で素焼なんです。かけらがたくさんでてきたんです。その部分を三メートル四方ぐらい拡げましたら意外なことがわかったんです。一・五メートルくらいの範囲に破片がかたまってでてきました。これを更に拡げたら、その付近に焚火をやったあとがでてきたんです。そしてその向こうに坏形の土師器がこわれた状態で四個ならんででてきました。更にその向うに径五〇センチ位の丸い穴がでてきたんです。即ち丸穴の前に土師器が四個並べてあってその前方で火を焚いている。更に前方にたくさんの土師器のこわれたのがみつかったのです。これは何の跡でしょうか。発見された土師器は坏と呼ばれる、皿より少し深いものですが平安時代のはじめころのものなんです。大山の山頂にのぼってきてこのように土師器を並べ、その前で火をたき、更にその前にも土師器をたくさんならべた。それが平安時代の初めごろなのです。向うにある穴は径五〇センチくらい、深さ六五センチあります。赤土の中に深々と掘られているんです。中には黒土が入っていました。山頂でこのようなことをするのは修験者(山伏)です。この穴は修験者が生木の秘伝(ママ、碑伝?)を立てたところです。山伏が入山するとき頭にときんをつけ、ゆいげさをかけ、笈を負いますが、中の一人が斧をかついでいます。山上の行場で生木をきりたおし、頂をへの字形にし正面を削り、そこに何年何月日、誰誰がここにおいて行をしたということを墨書します。これを生木のひでといいます。この穴は生木の秘伝(ママ)をたてたあとなんです。その前に供物をする。ここにあった土器はいわゆる六器なんです。焚火は護摩をたいたあとです。これは修験者の行場のあとだったんです。こういう痕がたくさんあるはずだと考えられたので、更に南側に横六メートル掘りましたがここも掘りあらされていて、土師器片がでてきただけでした。

 山頂にある奥宮の裏を掘りましたが灰だの鉄釘のくさったのだの炭片だのがたくさんでただけでした。明治十六年山頂火災のあと始末をしたところとわかりました。

 そういうわけで山頂には御神体岩の後が大きく崩されていて、今社務所保管の甕や鏡が明治十二年にそこから掘りだされたこと、山頂には山伏が行をやったあとがあちらこちらにあったらしいが戦後ほりかえされて不明となったこと、江戸時代のはじめころ三つの塚が作られたこと、塚の周りから出た寛永通宝は参詣者が奉献したものが埋もれたことがわかりました。塚の底から発見されて大きな疑問となった縄文土器片は山伏が塚を作るとき埋めたものと判断できました。話を落としましたが右側の塚の浅いところから銅製の五重塔がでてきたんです。これは後世頂上にのぼった人(多分山伏)が塚を少し掘って埋めたものだろうと思います。

 この調査が終わって数年後のことです。山頂で石段が修理されました。そのとき土製の観音坐像とみられるものが何体も発見されました。これは前と後と別々に型を作り、別に作られた頭を頭をさしこんだものです。たくさん作られ山上に埋められていたことがわかりました。山頂調査のとき土製蓮座が発見されていましたが、それはこの土製坐像の蓮座の一つだったのでした。蓮弁の形からみて平安末期と考えたんですが、鎌倉国宝館の渋江先生がこれについて報告をかかれるはずだったんですが、二〜三年前病気でなくなられたのでそのままになっていました。今日大山の話をしますのにどうしても土製坐像の年代が知りたいので、本博物館の金子副館長の御意をうかがったんです。副館長は仏像の専門家です。御意見によるといかにもこれは古そうにできているが、よくみると頭の作り方は中世の作りである。どう古くみても中世よりも古くもっていくことは無理じゃないか。形そのものはどうみても平安時代にみえるんだが、髪の結い方などからいうと、中世のものであり、どんなに遡っても鎌倉時代の初めころにしかもっていくわけにはいかないだろうということでした。こういうわけで大山のてっぺんの調査は大成功とまではいきませんでしたけれども、今までわからなかったことがかなりわかってまいりました。普通調査といいますと書いたものをもとにしましてやっていくことが多いので、書いたものがないときにはどうにもならないんです。しかし最近では書いたものがなくても、地下に埋もれている状態を細かに調べることによって、いろいろわかるようになりました。

・・・・・・・・・(後略)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」



神奈川県教育委員会 赤星直忠「大山調査 概報」
                             『横須賀考古学会年報』 横須賀考古学会 1960年(昭和35年)

「・・・・・・・・・(前略)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

五、結び

 出土品は次の三期のものに大別される。1、大山信仰以前のもの 2、中世信仰に関係ありとみられるもの、3江戸時代の大山信仰に関係ありとみられるもの

 この中、大山信仰以前の遺物はAトレンチ東端部分から出土した縄文式土器である。一二四六mの高所から発見されたことの意義は大きい。大山は相模平野にむかって屹立した高峯であり、その山頂部分は、いかなる条件のもとであるにせよ、一般居住生活には不適である。縄文式土器の出土状態はせまい範囲にのみ破片が密集しており、また土器以外の遺物をのこしていない点で、当代の一般住居遺跡とはかなり異なっている。したがってこの場合にも、特殊な遺跡の性格を考えねばならないだろう。それが特異な生活事情に関係するのか、あるいは何らかの信仰にまつわるものものなのかはあくまでも想像の域をでないが縄文時代における「高距遺跡」の貴重な例として、ここにその事実を報告した。大山が雨降りの神として信仰をあつめたのがいつのころかは定かではないが、少くともこの山頂に最初の足跡をとどめ、記念物をのこしていったのは縄文時代後期の人たちである。(岡本勇氏原稿による)

 中世に大山信仰が存在したであろうことは山岳修験の存在によって当然考えられねばならぬ問題である。山頂部から検出された土師器系統の土器片はこれに関係あるものとして注意されねばならない。しかしBVBUトレンチにおいて埋没状況を確認できただけであることは極めて残念なことである。この部にあっては坏形土師器が置かれた状態で埋没していたようであるが多くは破壊していたので断片として採集されたものが多い。BVにおいて確認できた遺構としては、四個の土師器が一直線に約20cm間隔に南北方向に上向におかれており、その西側に径50cmくらいの丸穴(深68p)があり、中に黒土がつまっていたがその上に石塊一個が置かれていた(石塊上面の高さは土師坏表面より14cm低い)。穴の中からは何も検出できなかった。四個の坏の東側には直径2cm以下の丸木の炭が集合して存在した。これは明らかに焚火のあとである。附近から土師坏断片が幾個も検出されているがそれらには灯明皿としての用途にあったことを物語る破片も混じていた。これらは修験行法のあとと考えられる。このあたり一帯から検出された土師器は何れも坏形であり、中には側面に低い肩とみられる稜の存在するものがあり又須恵器坏断片もみられた。土師器の中には底面中央に独特な押型を存するものがみられ、これは小田原市永塚遺跡や千代廃寺遺跡で検出されたものと全く同じものである。永塚遺跡資料は全般から平安初期頃の遺跡と考えられるから、大山山頂における修験行法あとには平安初期頃のものがあることは確かであり、これにつづく前後の時期のものの存在が考えられる。出土の土製蓮座は蓮弁の形態から中世のものと考えられ、前記土師器片と伴出していることは忘れてなるまい。上社背後出土の常滑焼壷、断片、須恵風の壷、断片、和鏡、陶片利用硯など藤原期から鎌倉期にかけての中世信仰遺物であるが、他に最も多くの出土を期待したこの期のものが出土しないことは中世大山信仰上もう一度考えてみる必要がありそうである。現在の上社本尊については明らかなことはわからないが山腹から生えぬきの岩であると伝えるところから考えると山腹から立石状に突出した自然石であるらしい。上社附近の崩部にあらわれた地盤を形成する岩石は御坂層上部に属するから、もとこの部分に立石状に露岩があったものが山自体を神体と考える人たちの登山によって発見せられ、やがて岩が山霊を象徴するものと考えられるに至って神社の神体とされるに至ったものであろう。神体として神殿の内深く納められる以前には山の神体として露岩のまま信仰の対照(ママ)であった筈である。

 大山信仰が修験者を先達として庶民の間に盛になったのは江戸以降である。山頂で発見された染付陶片が何れも江戸中・後期のものであり、若干の宋銭を含む江戸中期の通貨である寛永通宝などが各所に埋没したり表面に散在したのはこの時期の信仰の遺品であろう。彼等がどのような形で山頂に遺品を納めたかは不明であるが幾つかの盛土墳形が山頂にいとなまれたのがこの時期と推察されることから考えると大小の差こそあれ塚形を築くという形で埋納されたのではあるまいか、東半分にそれらが多く散在するのは終戦後茶店ができて以後山上が削平され或はごみ穴が作られたことによってそれらが破壊され地上に散乱したものと考えたい。Aトレンチ東端AT盛土出土の青銅五層塔はこの盛土中に納められた埋納品の一つであろう、附近から寛永通宝以外に何も出土しないから その埋納年代はやはり江戸期と考えられる。

 発掘に費したのは僅四日間であり、人数もすくなかったので今回調査のごときことがせい一ぱいの作業であった。更に発掘調査するとすれば山頂部をめぐる傾斜面に埋納品の有無を調査するにあると思われるが雑木林になっているので容易ではあるまい。今回の調査は予定した経塚の発見は不成功であったが予想しなかった縄文土器の時代に既に山頂に登り土器を納めてあった事実が確認されたことと、中世における行法のあとが確認されたことが大きい収穫である。」



 大山山頂の公的な調査が初めて行われたのは、1959年(昭和34年)8月20日〜24日。しかし、詳細な報告書が作成されることなく時が経ち、発掘担当者の報告類は以上の二つのみです。つまり、この二つを基本資料として考古学的考察(※1)が今までなされています。なお、出土品は神奈川県埋蔵文化財センターに保管されていて、私も以前実見させて頂きました。

 平安時代〜江戸時代においては、大山は、山頂を含む大山川の谷全体が「大山寺」という一山組織で、明治時代になって、『延喜式神名帳』(平安時代中期)に記載されている「阿夫利神社:アフリノカミノヤシロ(※2)」という古来のヤシロ名を復活させた現在の「阿夫利神社:アフリジンジャ」という組織が成立するまでは、「大山寺」という組織の中でさまざまな活動(仏事・神事をはじめとする宗教活動や経済活動)が行われていました。

 なお、「アフリノカミノヤシロ」の位置等詳細は諸説あるものの不明と言わざるを得ません。大山寺内・大山寺外どちらにあったのか?学術研究分野では定説もありません。

 上記「大山山頂発掘地略図」の「奥社」はもと「大天狗社」、「地主神」は「徳一宮」、「上社」(本社)がもと「石尊社」(「石尊宮」「石尊権現社」)、「前社」がもと「小天狗社」、ほかに「雨風宮」が「石尊社」の左手前にありました。

 大山信仰の起源について何かと話題になる出土縄文土器については、発掘直後の「大山調査概報」では縄文時代のものと一旦考えられながらも、その後の分析によって、近世初期の地層からの出土であることが明らかにされ、現在の山岳考古学研究の分野では、大山山頂遺跡は平安時代から江戸時代にかけての仏教的祭祀遺跡として一般に扱われているようです。

※1
 時枝務 『考古調査ハンドブック6 山岳考古学』 ニューサイエンス社 2011
 小出義治 「相模大山」 『季刊 考古学第63号 特集 山の考古学』 雄山閣 1998 ほか
※2 池邊彌 『古代神社史論攷』 吉川弘文館 1989


(2012/5/4 城川隆生)
【参考】『大山縁起(真名本)』