中世の丹沢山地 史料集 index

 『今大山縁起』(寛文五年 1665年)


「夫吾朝東海道相模国愛甲郡飯原邑之今大山清瀧寺不動院者、東関無双之霊地、国郡无比之旧跡也焉、推原其来由、蓋良弁開基之遺躅、願行尅彫之不動御長三尺、而霊験于今新也、譜代相伝而為安置之本尊、為寺院四辺之状也、東者有塩竈之滝、七丈有余而、飛流直下這曝瀑布、是名金剛滝、常対胎蔵界之滝、西者有明王嶽、八紘岌峩而、乍峉、抜地擬忿怒、是処応迹云、降恒御明王之安座趑趄、望法華方等之異石、花巌般若之岑直顕、初当鷲嶺鹿園之儀盤恒、顧北天照大神之皇宮勧請、神社之方載、是均見説勢州清浄之地焉、曽亦広林之山頭山長、号如龍臥峯峙号似虎踞、清風徐吹明月斜来、風雅之道自封矣、彼滝下安飛滝権現之鎮座、紋神祠於丹塗琢、社檀於瑞籬、霊徳卓尓、機激則利見威粛、巍然然而人感則垂象、又有高岩、岩下有仙窟、別真之所、都塵埃相去、六情叵及、鈴音響干朝夕、厥音通干山川、聞之者驚無明昏夜、信之者払身心有為塵焉、其外霊石燦然而、表五仏之尊容、凡是如来有応之処、豈在干異処乎、十手所指、十目所視、無盡壮観、不堪枚挙也、矣斯地開闢之後星移物換、卜大山寺頽廃所、以斯山移大山寺而、以号今大山、
・・・・・・・・・・(以下略)・・・・・・・・」


 この縁起は明治二年(1869)まで愛川町半原にあった今大山清瀧寺の縁起です。良弁を開基とし、本尊が願行作の不動明王、そして大山寺が頽廃している時にここを新しい大山寺として移し「今大山」と号したと伝えています。つまり大山との深いつながりを感じさせる縁起です。

 そして、何よりも注目に値するのが、周辺の聖地説明です。中世の修験系縁起特有の語り口で、塩川の谷~仏果山・経ヶ岳一帯の行場を説明しています。この縁起の成立は江戸時代初期ですが、この聖地説明テキストのもとになったと考えられる文章が存在します。それが、遠く離れた大山の『大山縁起』なのです(※1)

 翻刻は、『神奈川県史』 資料編8近世(5下)にありますが、小俣徳一氏が手書きで筆写されたもの(コピー、神奈川県立図書館蔵『今大山縁起の研究』1954)の方が文字等正確かもしれません。

※1
拙稿「地方霊山の入峰空間と寺社縁起―丹沢と大山寺修験―」『山岳修験』第39号 日本山岳修験学会 2007
拙著『丹沢の行者道を歩く』白山書房 2005


(2006/5/28 城川隆生)
【参考】『大山縁起』丹沢大山修験両部瀧(塩川の谷)