中世の丹沢山地 史料集 index

丹沢 大山修験両部瀧

「金剛滝」(蜀江滝、高さ約30m)
大椚沢上流
愛川町半原塩川添948番地と950番地の間
「胎蔵界滝」(飛龍滝・地蔵滝、高さ約30m)
小松沢の上流
愛川町半原塩川添947番地と948番地の間


 右の滝は八菅修験第五行所として広く知られている滝です。愛川町を代表する観光名所でもあります。
 
 上の二つの滝はこの山域に入ったことのある方々(堰堤工事関係者、沢登りの登山者)や地元の伝承に詳しい方々にはその存在が知られていました。『あいかわの地名』(愛川町文化財調査報告書 第19集、愛川町教育委員会 1991)にもその場所が正確に紹介されています。少なくとも明治二年に半原の清瀧寺が廃絶するまでは(あるいはその後も)、地元の宗教者や里人の行場あるいは祈祷の滝としてお祭りされていたはずです。

 私の調査研究は、中世 大山寺(伊勢原市、現在の阿夫利神社+大山寺)の『大山縁起』に記される大山修験の入峰空間の解明が大きな部分を占めていました。その中でもはっきりと場所を特定することができた行場空間の一つが「両部瀧」、つまり、大山からは遠く離れたこの塩川の谷に存在する複数の滝行場です。この谷は八菅修験や地元の清瀧寺にとってだけでなく、中世の大山修験にとっても重要な聖域であったわけです。

 従来、丹沢山地の入峰空間は、八菅修験の空間認識をメルクマールに考察されることが多かったのですが、塩川の谷が持っている「意味」は、中世の丹沢周辺の修験集団にとっての共通の行場としてとらえ直す必要があります。(※1)

 たとえば、鈴木正崇氏は八菅修験の峰入りについて「東北(艮、鬼門)から西南(坤、裏鬼門)へと指向する。」という見方(※2)をされています。しかし、この塩川の谷は、おそらく、里(田代=中津川)と連続する祭祀・修行の空間として入峰儀礼成立以前から広く認識されていて、丹沢山地で入峰儀礼が成立した時に、入峰空間の「出入り口」として選択された場所ではないでしょうか。

私は、やはり、方角や「鬼門」云々よりも、あくまでも向こう側の「出入り口」大山との距離とこの塩川の谷周辺の聖地としての地形が入峰空間の「出入り口」として適当であったからであろうと考えています。つまり、八菅修験は中世における丹沢周辺の修験集団が共有していた「出入り口」を利用していたということです。

※1
拙論「地方霊山の入峰空間と寺社縁起―丹沢と大山寺修験―」『山岳修験』第39号 日本山岳修験学会 2007
拙著『丹沢の行者道を歩く』白山書房 2005
※2 鈴木正崇『山と神と人』(淡交社 1991)
(鈴木先生には、「今でもやっぱり鬼門だと思ってるんだけどなあ・・・」と言われましたが・・・。)



「塩川滝」(塩竈滝)
(2006/6/6 城川隆生)
【参考】『大山縁起』『今大山縁起』