中世の丹沢山地 史料集 index

七所権現と五所権現


 複数の神様を組み合わせて「○所権現」「○社権現」または「○所神社」として祭るのは決して珍しいことではありません。しかし、その神様のセットが修験霊山の神々ばかりとなると事情は違ってきます。

・日向山霊山寺では南北朝期には 熊野・箱根・蔵王・石尊・山王・白山・伊豆の七所権現を祭っています。

・八菅山光勝寺では室町時代後期には 熊野・箱根・蔵王・八幡・山王・白山・伊豆の七所権現を鎮守として、また、峰入りの中での重要な信仰対象として祭っています。

・岩殿山(山梨県大月市岩殿)七所権現社では 蔵王・熊野・箱根・日光・山王・白山・伊豆、その神像も中世のものです。

 このような権現のセットは甲府盆地に入るともっと高密度になります。

・大宮権現(山梨市万力)では 金峰(=蔵王)・白山・熊野・走湯(=伊豆)・箱根 + 新宮・那智の大宮七社、ここでは社殿が12世紀末に造立されています。【『甲斐国志』『甲斐国社記・寺記』】(※1)

・今でも、「藤切」(フジキリ)という、日向のシゲタテや八菅の神木登りに似た修験の儀礼祭りをやっている大善寺の五所権現社(甲州市勝沼)は 熊野三山・伊豆・箱根で、11世紀末から祭っていると伝えられています。【『甲斐国志』『甲斐国社記・寺記』】

・日本最古の役行者像を持つ円楽寺(甲府市七覚)の五社権現は 熊野・白山・金峰・伊豆・箱根です。また、ここでも江戸時代までは「真木伐(切)」「真截」(シンキリ)という「藤切」と同じような修験の儀礼祭りが行われていました。【『甲斐国志』『甲斐国社記・寺記』】

他にもまだあります。日本全国で見てみると、新潟県、埼玉県、滋賀県、島根県にも散見できます。

 宮家研究室編『修験集落八菅山』(愛川町 1978)や宮家準・糸賀茂男「八菅山の修験道」『日光山と関東の修験道』(名著出版 1979)では、七社権現が中世末から近世初めに成立したのではないかと推測されていますが、『神分諸次第』の発見により、「七所権現」信仰がさらに遡ることが判明いたしました。

この七所権現(七社権現)は中世前期に修験者・先達のネットワークの中から誕生した信仰セットと見ることは出来ないでしょうか。とすれば、そのモデルはやはり熊野三所権現です。そして、甲斐の熊野先達が伊豆・箱根両所権現の先達も兼ねるようになれば五所権現に拡大し、甲斐金峰山の修験霊山としての求心力が高まれば蔵王権現が、天台系白山修験の影響が入り込めば白山権現・山王権現が、さらに在地性の高い信仰対象も加わって七所権現が成立した、と考えることができます。

 そうすると、八菅の「七所(社)権現」ならではの特徴は「八幡」を祭っていることです。そこに、八菅修験草創期つまり経塚群造立期における八菅山と毛利(森)庄の源家やその家人たちとのつながりを推測したくなります。

また、日向「七所権現」ならではの特徴は「石尊」を祭っていることです。大山の登山口に位置する日向の修験集団にとっては当然のことであったでしょう。

※1 甲斐金峰山修験の五社権現・七社権現については山本義孝「甲斐における山岳信仰の研究の展望」(『帝京大学山梨文化財研究所報』第46号 2003)が参考になります。

(2006/6/6 城川隆生)
【参考】「八菅山経塚と海老名氏・源氏について」、『霊山寺鐘銘』『日向修験石造碑伝』
拙稿「丹沢山麓の中世の修験とその関連史料」『郷土神奈川』第47号(神奈川県立図書館、2009年)
※表題は校正ミスがあって「丹沢山麓の中世の修験とその関連資料」となっています。