中世の丹沢山地 史料集 index

八菅山経塚と海老名氏・源氏について


 『八菅山光勝寺再興勧進帳』の中で、大日尊像を安置した人物として登場する海老名季貞(季定)は海老名氏・荻野氏・本間氏・国府氏の祖となる人物です。そして、12世紀の相模川中流域〜中津川流域における有力な開発領主であったと考えられます。その土地はおそらく早くから源家に寄進されており、平治の乱以前は源家との主従関係があったのでしょう。季貞は源義朝の家人として保元の乱に出陣しています。また、その頃の毛利(森)庄には「毛利(森)の冠者」源義隆(八幡太郎義家の六男)の館もあったはずです。

 神奈川県内最大の八菅山経塚群が造立されていたのも、ちょうど同じ頃の12世紀頃です。海老名氏をはじめとするこのエリアの開発領主と源家の人々が中心になって八菅山に経塚造立を行っていたと考えられないでしょうか。その宗教行為を請け負っていた宗教者が八菅修験の原初的な姿ではないかということです。それは熊野の宗教者たちと熊野・大峰の経塚群の関係と似ています。八菅は毛利庄にとっての熊野本宮であったのでしょう。八菅山の七社権現社は「証誠殿」(熊野権現)を中心に構成されているのです。

 なお、この勧進帳が記された15世紀初め、袖判を加えた足利持氏の時代においても、海老名氏が持氏の有力な家臣として行動をともにしていたことが永享の乱【永享十年(1438)〜永享十一年(1439)】を記す『永享記』から伺われます。源家と海老名氏のつながりを顕彰するような内容を含むこの勧進帳の背景にはその辺の事情があったのかもしれません。

(2006/6/20 城川隆生)
【参考】「七所権現と五所権現