中世の丹沢山地 史料集 index

 『霊山寺鐘銘』(暦応三年 1340年)


「相州日向霊山寺行基菩薩霊亀
二■
(「禾」の下に「千」)大歳丙辰二月八日草創因茲為
村上天皇後発願天暦六年
大歳壬子二月
八日忝自京都被下口二尺一寸椎鐘於
当山訖而復以院宣仁平三■
大歳癸酉
二月五日
甲子以関東三箇國人別改二
尺五寸被造功訖頗種々佛事勤行
于今無退転而破損之間進十方施
主知識改口二尺六寸所奉鋳也然則
至千群参助成之輩等志者開現當

二世本願成就扇(肩?)於三輪円満之功
徳者偏令仰無邊之利益者哉仍為
天長地久御願圓満右所記如件
  暦應三■
大歳庚辰十二月十五日甲子
      大工大和権守物部光連
      大勧進権少僧都  豪海
      院主  権律師   忠●
左は「ひとがしら」の下に「小」、右は「見」か?
  勧請 十二神将
  證誠 七所権現

  (梵字種子)ア
         バイ
         シャ
                   」



 この鐘銘は、鉈彫り薬師三尊像とともに、平安時代における霊山寺の隆盛を伝える史料として注目されてきました。現在も薬師堂境内の鐘楼に架けられています。因みに、宝城坊では平成15年(2003)にも平安後期の十二神将像が確認されています。

 ところで、この梵鐘が製作された南北朝時代に、「證誠 七所権現」と記されているのはどのような意味があるのでしょうか。これが丹沢山麓の「七所権現」の初出です。南北朝期、一山組織「霊山寺」の堂衆の多くが修験者であり、一山の鎮守として七所権現を祭っていたことを物語っていると考えられます。その頃、丹沢山地には『大山縁起』に記されているように峰入りの空間がすでに成立していたはずです。

 
(2006/5/28 城川隆生)
【参考】七所権現と五所権現丹沢日向修験石造碑伝『大山縁起』
拙稿「丹沢山麓の中世の修験とその関連史料」『郷土神奈川』第47号(神奈川県立図書館、2009年)
※表題は校正ミスがあって「丹沢山麓の中世の修験とその関連資料」となっています。