『改申諸法度之事』(慶長十四年 1609年)
「 一 毎年正月、修正之時、清僧山伏衆立相之勤行有来儀者、以前妻帯住山之間也、既山中一円清僧ニ被仰付上者、以来修正之法事清僧勤之、妻帯之執行交汚之儀堅可停止事 一 正五九月大般若、向後一円可為清僧之役事 一 二月神事之時、近年山伏衆施儀理運ニ申懸、十二防(坊)舎不便之上ニ雑掌令迷惑儀更非仏法興隆之所用上者、全不可然、只衆徒中其坊舎再興為本儀仏法修学為肝要上意如此不可余念、然者山伏衆振舞可為如斯、朝者惣次赤飯也、神木引終而後者木具土器一円停止也、飯膳者本膳三菜二之膳一汁二采点心一種吸物一遍酒前後五献(中酒共)但、神木山伏者八木一駄鳥長目一貫文有祝儀也、此外六ヶ敷儀一円不可用之、此外衆徒衆論議勤之可為神事之事 一 諸堂諸社散銭者十二坊進退之儀御黒印勿論也 但此内行者堂御輿屋之散銭者一旦守手に預置者也神事御輿散銭者社人四人に預置為扶持也山王宮浅間宮白山社(同下之本宮諏訪宥泉)鹿島(十二所宮山之神大黒宮所灯明料玄長)此等者大若人四人之扶持に預置者也此等之立方若奉公無沙汰之時者従別當取上別に可被申付事 一 諸堂進退之事 一 前不動(東光坊) 一 行者堂(山伏ニ預) 一 仁王堂(衆中) 一 阿弥陀堂(八大坊) 一 観音堂(八大坊) 一 二重堂(衆中) 一 護摩堂(八大坊護摩壇共) 一 荒神宮(衆中) 一 釈迦堂(八大坊) 一 明王宮(衆中) 一 本宮(衆中諸末社同前) 一 浅間宮(衆中但預ケ扶持) 一 山王宮(衆中但預ケ扶持) 一 阪ノ行者堂(衆中但預ケ) 一 上ノ行者堂(衆中但預ケ) 一 御輿(衆中但大夫方扶持) 一 穴地蔵(衆中) 一 福石(八大坊) 一 屋敷無動庵(東大坊進退) 一 西迎寺(寶壽院) 一 来迎谷(八大坊進退) 以上如此 一 當山願行上人眞言中興之上者他宗之雑住一人茂不加入之●林坊(天台宗)早可出山也以来皆可為如此事 一 十二衆僧無学行者自別當可被改之事 以上七ヶ條 慶長十四年己酉十一月八日 高野山遍照光院 頼 慶 判 大山寺惣衆中 」 |
慶長14年8月の徳川家康『大山寺定』、高野山遍照光院頼慶『大山寺諸法度』では、大山寺衆徒をまだ完全に従わせることが出来なかったのでしょう。11月に入って、再びこの諸法度が高野山学侶方の遍照光院頼慶から出されています。 当時は、この法度を出している遍照光院が所属する高野山においても、一山の衆徒(※高野山三方:学侶方・行人方・聖方)すべてを真言宗に帰入させる施策が行われておりましたが、ここ大山においても、幕府の宗教政策として、高野山学侶方の主導のもとに山内改革を急いでいた様子が伺えます。 なお、この史料からは、大山寺山内に「山伏衆」と呼ばれる修験化した衆徒集団が存在していたこと、彼らが「修正会」「二月神事」(おそらく「大般若」も)といった山内の年中儀礼に深く関わっていたことが読み取れます。中世の山岳寺院 大山寺の一端がここから見え隠れしています。 また、この「二月神事」に、「神木」「神木山伏」が登場していることは興味深いことです。「神木山伏」は「神木」を立て祭祀を行う儀礼の担当者のはずで、相模〜甲斐・伊豆エリアで近世期も行われていた修験の入峰儀礼(日向「シゲタテ・神木立て」、八菅「神木登り」、大善寺(勝沼)「藤切」、円楽寺(甲府市七覚)「シンキリ・真木伐(切)・真截」、伊豆山(熱海)「神木登」)が大山寺でも行われていたことになります。 しかし、この『改申諸法度之事』からもわかるように、大山の修験集団はその後事実上壊滅し、各儀礼の詳細も今となっては不明です。 この史料の翻刻は以下にあります。 ・石野瑛 編著『相模大山縁起及文書』武相考古會1931 |
(2008/8/7 城川隆生) |
【参考】『大山寺定』、『住心院文書』「相模国大山修験道、近年乱候・・・」 拙稿「丹沢山麓の中世の修験とその関連史料」『郷土神奈川』第47号(神奈川県立図書館、2009年) ※表題は校正ミスがあって「丹沢山麓の中世の修験とその関連資料」となっています。 |
(2009年8月4日追記) 近世の富士村山修験(富士山)の年中儀礼の中に「真木登り」「真木之御祭礼」という行事あり。しかし、その詳細は全く不明とのこと(大高先生よりご教示を頂きました) ※大高康正「富士峰修行考」『山岳修験』第43号、日本山岳修験学会2009 参照 |