中世の丹沢山地 史料集 index

 「杉本坊周為・雑務坊源春連署書状」(『住心院文書』)(年不祥)



(包紙上書)
「興意御門跡より勝仙院江大山之儀、被仰付候雑務・杉本状」

「相模国大山修験道、近年乱候故、大峰修行之者然々無之、其上御通ニも不罷出候。然者、法度以下、急度被仰付候様ニ、貴院江被成御預候間、堅可有御下知之由、御門跡様御意候条、可被得其意候。恐々謹言

                             雑務坊
      三月廿一日                  源春(花押)
                             杉本坊
                               周為(花押)
     勝仙院殿
                                           」
                                         



 住心院は、本山派修験の中で、聖護院に次ぐ寺格を持っていた院家(いんげ)の一つです。この資料は聖護院門跡 興意親王の意志を勝仙院(後の住心院の前身)に伝えた手紙です。大山の山伏たちが、「乱れ」のために大峰修行に来ない上に聖護院門跡への挨拶にも来ない事を咎めています。

 この「乱れ」が、慶長十四年を挟んだ大山寺の大変革を指している事は間違いありません。ここから、それまでの大山寺修験が本山派として大峰修行に参加していたらしきこと、それが、大山の真言宗寺院化を急ぐ幕府や高野山学侶方との軋轢によって「乱れ」、本山派修験としての勤めが果たせなくなっていたこと、が読み取れます。

因みに、江戸時代、御師兼帯として山麓に残ったわずかな修験はいずれも住心院の霞下でした。

 興意親王は後陽成天皇の弟。大峰入峰は慶長三年(1598)。豊臣秀吉の建立した方広寺大仏殿の責任者として、徳川家康が呪詛を疑ったあの言い掛かり事件でとばっちりを受けたことで有名です。

 時の勝仙院住持は第八代の澄存。父は戦国大名 今川氏真、母は北条氏康の娘 早川殿(蔵春院)。大峰修行は三十三度を越え、両峰(大峰と葛城)修行七十五度。澄存の時代、勝仙院は本山派修験の中で最大の霞を掌握していました。澄存は修行を積んだ山伏として知られていたようで、皇室・摂関家・公家衆・将軍家・全国の大名衆を檀那・施主として入峰中の採燈護摩を修行し祈祷を行う実力者でした。

また、先代の勝仙院住持 増堅もまだ存命で、隠居の身ながら、現役の山伏として興意親王の側近として活動することもあったらしく、この手紙が先代宛だった可能性も指摘されています。

 なお、その後、大山寺別当八大坊が、当山派修験の棟梁となった醍醐寺三宝院を訪ね、大山寺は真言宗になったので当山派として大峰修行に参加したいという意思表示をして断られた事が『義演准后日記』の元和元年(1615)正月九日条に記録されています。【関口真規子さんのご発表『「当山」派成立と同行について』日本山岳修験学会聖護院門跡学術大会2011で教えて頂きました】


 この史料の翻刻は以下にあります。
・首藤善樹・坂口太郎・青谷美羽 編 『住心院文書』 思文閣出版 2014

(2015/6/1 城川隆生)
【参考】『大山寺定』『改申諸法度之事』
【参考文献】首藤善樹・坂口太郎・青谷美羽 編 『住心院文書』 思文閣出版 2014