中世の丹沢山地 史料集 index

 『普光山畧縁起』(元亀四年 1573年)


「武蔵国多摩郡野津田郷普光寺薬師如来は、仁
(ママ)王四十四代元正天皇の御宇、霊亀年中、開山則行基大僧正衆生化益のために国中を巡行したまふ、大和地(ママ)を御修行ありし時、路辺に癩病の人臥居、行基を見奉り、尊者は大悲化益の志、我膿を吸いたまわゝ平愈(ママ)せん、頼んとするに人なしと、行基■(「りっしんべん」に「哀」)みたまい、彼膿を吸たまへば、病者大半快し、尚熊野本宮の湯に入なば全快ならんと、誠に化益の御志、病者を負ひ、本宮の湯に入たまへば、病人忽相を変じ、薬師如来の身を現じ、三十二相八十種好まし/\、白毫の御光りは三千世界を照し、諸天善神囲繞し、異香四方に薫んじ、尓時如来金色の御手をのべて、行基の頂を摩、告のたまわく、我十二の大願を起こしき、東方恒河沙を過、浄琉理(ママ)世界の教主となりぬ、尓るに汝が修行力を験民(ママ)と欲して、仮に癩人を現じ、爰にまつ、今より後、衆生利益の誓願を満ぜんとならば、我生身の像を雕りて、微妙浩■を末世に残すべし、ニ利の福田何事か是にしかんやと言ひ終て、光を放、東方に化し去りたまひぬ、行基不思議の瑞応を感じて、礼拝讃呼して、既にして椿葉・梅葉・白檀葉とをもみて空に抛て誓ていわく、樹葉の至る所におもむひて、薬師の尊像を雕り安置し奉んと、其至所を尋、我日域に数千の如来を造立したまいぬ、然るに彼の樹葉も飛去り、昼夜普光を放ければ、扨こそ普光山とは名づけたまふ、已尊像を刻んとするに良材なし、爰に弁財天女と稲荷大明神数尺の槁木を持し来ていわく、此良材は、昔天竺優■(「つちへん」に「眞」)王釈尊の像乞ひ奉、栴檀の瑞像を雕りし其端也、尊者の誠情を感じて神身を運て取来れり、行基是を得て勧(ママ)喜而、ニ神に盟ていわく、此像既成せば、■(「亦」の下に「火」)此に当りて擁護をたれたまへと、今に至て当山の北に唐山稲荷、東の池水の辺に弁才天の社有は是に依て也、維時、本朝四十四代元正天皇霊亀二年也、像成て大地六反振動し、四境琉理(ママ)と変ず、諸の盲たる者も聾たる者も、爰に剤誡祈情(ママ)すれば、愈■(「白」の右に「句」)然として其霊験を得ん、薬師本願経に曰、我此名号一経其耳、衆病悉除して身心安楽ならんと説たまふ、仏語いかんぞむなしかるべきや、霊瑞四方に達して蔵すに処なく、威徳朝庭(ママ)に遍して有司其事を奏聞す、天皇忝も詔を下して、山を広め、精舎を初、像を其中に安置し奉、故に仏法王法繁昌し、一切衆生に福を医王如来あたへたまふ、此故に福王寺と号たまふとかや、其後宝殿日ゝに映ゝとして、盡(ママ)棟雲にそびへり、暦(ママ)代衰しかば、聖武天皇神亀の比、御院宣を以修理したまふとや、日光・月光・夜叉神・■(「田」の右に「比」)沙門・弁天、行基の御作也、其外、不動・阿ミ陀・地蔵■(「くさかんむり」に「廾」)、大師の御作、其所に安置し奉、起立已来、御院宣・御教書、其外の宝物、数度の兵乱、或は野火来て焼失す、就中、永正元年甲子年、天下大に飢饉す、此節盗賊乱入し、年序経■(「古」の下に「又」)不残焼失すと申伝也、尤御作又尊像等は于今仮殿に安置し奉を、古のさかんなるを思へば、殆涙を拭に暇あらず、併如来の神力无窮なれば、利世安民疑ふべからず、予古を伝聞畧して今是を記ス

別当法印興満 

                    于時元亀四年        」



 特異な平安仏を本尊とする野津田薬師堂(東京都町田市)の縁起です。野津田薬師堂には延享二年(1745)の『武陽多磨郡野津田邑普光山福王寺 華厳院兼幸山明王蜜寺之記』という縁起もあって、こちらの方が薬師堂の歴史を語る際にはよく引用されてきました。

 上記史料、元亀の縁起については、西尾正仁氏が、『薬師信仰−護国の仏から温泉の仏へ−』(岩田書院 2000)の中で、温泉ではない所に伝わった熊野の温泉薬師譚として注目し、熊野修験による行基伝承の伝播に言及されています。このことは、やはり特異な平安仏(ナタ彫り)が本尊であり熊野系修験の拠点であった日向薬師霊山寺の縁起と読み比べた時に、より説得力を増すことになります。なにしろ、この二つの縁起は全く同じモチーフをもとに構成されているのです。(※1)

 なお、この縁起の翻刻は武者小路穣『ものと人間の文化史41 地方仏』(法政大学出版局 1980)にあります。

※1 拙著『丹沢の行者道を歩く』白山書房 2005

(2006/7/4 城川隆生)
【参考】『霊山寺縁起』