中世の丹沢山地 史料集 index

 『霊山寺縁起』(室町時代頃)
【部分テキストのみが伝わる】


「神仙の霊窟、異人の幽棲、衆霊の棲息する所なるを以って為に霊山の號を立」


「日向山霊山寺は、薬師如来應現の霊蹟、行基菩薩開闢の梵區なり、基初奈良を出て熊野に詣る日、路にして癩人を見る、獨樹蔭に臥して傍に親舊なし、擧身■
(「てへん」に「闌」)壊し、膿血潰溢せり、一度是を見て悲念去ず、親から至り、親から看て日を重て懈す、自から摩、自から觸て、夜を疊て弛む事なし、徐此に謂て曰、我聞熊野の本宮に温泉あり、神泉の都する所、百疾倶に治す、諸有疥癩疽一度浴して癒ずと云者なしと、汝曷ぞ往て浴せざる、答て曰、久痾力衰、貧賤糧盡す、是を願ふ事久と雖、徒に由なき耳、基曰、我慈済以て己が任とし、化に適て勞苦を辭せず、則自から其人を荷負して、以て湯溜に就しむ、病客忽爾として、身變し形化して金膚肌滑に眼鮮なり、基の頂を摩て告白、東方十恒河沙の世界を過て浄瑠璃世界あり、我是彼界の主、薬師如来なり、偶汝を験と欲して、現して癩身を示す、日夕に看視して勞を告ず、自から臭穢に處して難る色なし、謂へし勤たりと、また汝に囑を勤て我相を模して、此を将来に胎せ、因て樹葉を與て曰、樹葉の至る所、即ち汝が止る所、汝が止所、是我像の存する所ならんと言終て隠れ給ふ、佛語に任せて樹葉を擲に、其葉此山に止る、爰に良材を求て像を造らんと欲て、周く山澤を訪ふに傳る所なし、時に二の神人有て數尺の香木を持し、来て基に授て曰、此は古昔佛世に優填王、釋尊を仰慕して天工をして尊像を刻ましめし餘材なり、石槨に封閉して、今猶朽ず、吾儕熟師の誠心を感じて特に力を運て、是を得たりと、基即歓喜して是を受て、相約して曰冀は霊を此に崇めて永く我寺の護法とせん、其姓名を問ば、則曰、熊野権現、白髭明神なりと、今山門の左右の二社是なり、眞容已に成て威霊生るが如し」


「其功を謳歌し、其徳を風詠して事天聴に達し給、詔則ち下る、石壁を擘開し、創て基址を建、金殿珠樓雲に飛日に映す、實に是本朝四十四代、元正天皇の霊龜二年なり」


「神龜元年大磯の海上に神光を放つ事、十二道、漁人驚異して、光を尋て海中に至るに、十二神将の霊像波に泛べり、自から流に遡て花水の隈に著、居民相議して、以て此山に送る」


「神龜二年幡天よりして降る」
「閭里驚歎して是を見るに物類凡に非ず、共に議して思らく、是諸天供佛の具ならん、宜く霊山に送るべしと」



 日向山霊山寺の縁起には複数のテキストがあります。寛文四年(1664)に記された『日向村薬師堂縁起』、貞享五年(1688)に記された漢文の『相州大住郡日向薬師縁起』、それと上記史料『霊山寺縁起』の三種類です。

この中で『日向村薬師堂縁起』は異質な縁起で、他所から訪ねてきた禅僧が日向山の由緒等にはお構いなしに薬師如来の霊験を一般論として展開したもので、中世の状況を伺う史料としてはあまり使い物になりません。

日向山霊山寺という一山組織の中には、江戸時代においても、真言宗の別当宝城坊の他にも天台宗本山派の山伏など、立場の違う宗教者が薬師堂に奉仕していましたから、どの立場の宗教者が縁起の編集に関わったかによって内容に違いが生まれたのでしょう。

 『相州大住郡日向薬師縁起』と『霊山寺縁起』は同じ内容の霊験譚が多く、『相州大住郡日向薬師縁起』に「依旧記誌焉」と記されている「旧記」が細部の説明に詳しい『霊山寺縁起』と同じものか同系統の縁起であったと考えられます。

そして、この『霊山寺縁起』が語る行基と薬師如来像の縁起は中世期に熊野本宮から発信されていた霊験譚の一典型なのです(※1)。今は白髭神社に合祀されていますが、旧参道を挟む形でもう一方に祭られていた熊野権現は、霊山寺の信仰対象の中で大きな位置を占めていたことがわかります。

 なお、『霊山寺縁起』は『相模国風土記稿』に引用されている部分テキストのみが伝わっています(2016/10/12追記:『伊勢原市内社寺鐘銘文集』伊勢原市文化財協会1970にも引用されています)。『相州大住郡日向薬師縁起』は内閣文庫蔵で、翻刻は鶴岡静夫『増訂版 関東古代寺院の研究』(弘文堂、1988)の中にあります。また、『日向村薬師堂縁起』は日向薬師宝城坊蔵で翻刻は『山岳宗教史研究叢書 修験道史料集〔T〕東日本篇』と『神奈川県史 資料編8近世(5下)』にあります。

※1 拙著『丹沢の行者道を歩く』白山書房 2005、西尾正仁『薬師信仰−護国の仏から温泉の仏へ−』岩田書院 2000

(2006/6/3 城川隆生)
【参考】『普光山畧縁起』(野津田薬師堂縁起)