中世の丹沢山地 史料集 index

 国立公文書館蔵『相州大住郡日向薬師縁起』
(「相州大住郡日向薬師縁記 全」)後段

(室町時代頃か?)

相模国愛甲郡日向山霊山寺者 薬師如来應現の霊蹟行基菩薩
開闢の梵區なり四山屏のことくに 圍て禅室固く冷川常のことくに環て
観月證り除霞ハ山に輝く幡めく幕 ハ天に満て張り境ハ心に随て変す 
心垢るゝときハ境濁る心ハ境を遂て 移る境閑なるときハ心朗なり心境
冥会して道徳玄に存す神仙の霊 窟異人の幽棲衆霊の棲息する所
なるを以て為に霊山の号を立其北 嶽の頂に一つの神泉あり八徳の
池水炎旱にも涸すニ俄の寒液久霖 にも溢るゝ事なし四遠を瞻望すれハ
列国を日下に指天地に俯仰すれバ 異域を雲間に望む滄海渺恾として
遠帆背を決山辺水光目前に接し 江嶋の神洲眼裏に現す煙波に出没
し風涛に沐浴す最勝王の偈に曰或 在山厳深険処或居坎窟及河辺是
を以てこれを観るに天女降峰神の地 なりといふ事目に触て自から知古より
神祠を建る事其茲に由歟瀑布二條 山袖に懸れり上蒼翠を穿は下無
地に入石尊其西に峙て勢羣巒を 壓山神其東に據て威衆邪を禦く   
南に雙峰兀として崛起セリ号して 見堂地といふ行基はじめ登臨
して堂地を卜せし処なり因て以て 名とす行基菩薩姓ハ高志氏泉州
大島の人百済国王の後なり天智 七年に生れ十五にして薙染し  
薬師寺に居す瑜伽唯識を新羅の慧基 に学ひ華厳の大旨を探りて十玄門に
入法界観を究む専賢首澄観の清塵 を慕ふ遐邇に幻遊して遊ぶに方なく  
都鄙に行化して化するに常なし尊 卑徳に偃し道俗風を欽しむ天縦して
造像に巧なり其彫ところ尤妙を致す 基始奈良を出て熊野に詣る日路にして
癩人を見るひとり樹蔭に臥して傍に 親舊なし擧身爛壊し膿血潰溢せり
行客道をさけ征夫穢を厭ふ一たひこれ を見て悲念さらず親から至り親から
看て日を重て懈す自から摩自から 觸て夜を疊て弛む事なし徐く此に
謂て曰我聞熊野の本宮に温泉あり 神泉の都する所百疾倶に治す諸
有疥癩癰疽一たび浴して癒ずといふ者 なしと汝曷そ往て浴せさる答て曰久痾
力衰へ貧賤糧盡ぬこれを願ふ事ひさし といへとも徒に由なき耳基の曰我慈済
以て己が任とし化に適て勞苦を辭せす 則ち自から其人を荷負して以て温湯に
就しむ病客忽爾として身變し形 化して金膚肌滑かに青蓮眼鮮かなり
三十二相八十種好玉のことくに潤ひ金の ことくに輝り毫光遠く照し竒華
天より降る嘉瑞雲祥心神悦惚たり 乃ち紫金の手を展て基の頂を摩て告
て曰我曩劫に曽て十二の大願を発しき 願力行を導て周圓し果満す東方十
恒河沙の世界を過て浄瑠璃世界あり 我ハ是彼界の主薬師如来也偶汝を
験と欲して現じて癩身を示す日夕に 看視して勞を告す自から臭穢に処して
難る色なし謂つへし勤たりと又汝に 囑す勉て我か相を模して此を将来に
貽せ其これに帰しこれを禮する者衆病 悉く除き亦心疾を治せん於是汝か情
素満し我か願も亦足なん然して後ニ 利益備ハり能事此に畢なん因て樹葉
(相伝て梅椿檀の葉といふ) を與て曰樹葉の至る所即ち汝か
止る所汝が止る處是我か像の存する所 ならんと言終て即ち隠れ給ふ基未曾
有なる事を得て礼拝讃揚し喜感心に 徹し渇仰声を起す遂に乃ち佛語に
任せて樹葉を擲るに其葉揺々曳しとして 此山に止る(伝らく今堂前の三株樹ハ是其遺蘖なりと)
爰に良材を求て像を造らんと欲して周く山澤を 訪ふに得る所なし時に二の神人有て数尺の
香木を持し来て基に授て曰此ハ是古昔 佛世に優填王釋尊を仰慕して天工をして
尊像を刻しめし餘材なり石槨に封閉し て今猶朽ず吾儕熟師の誠心を感じて
特に力を運てこれを得たりと基乃ち歓喜 してこれを受て相約して言く冀ハ
英霊を此に崇めて永く我か寺の護法 とせん其姓名を問へハ則ち曰熊野権現
白髭明神なりと今山門の左右の二社是 なり真容已に成て威霊生るが如し
大地震動し祥瑞時に現す磧土変して 瑠璃となり人物盛なる事佛刹の如し
天楽雲上に奏し寶華階砌にミてり 身子かみの劣なる事を哂む螺髪が心の
浄きに比す頃刻に丘陵故の如く舊きに 仍て山川依然たりといふといへとも其功
を謳歌し其徳を颯詠して事 天聴に達し 綸詔則ち下る石壁を
擘開し創て基址を建金殿珠樓雲に 飛日に映す依正善盡し四来具に贍盲
聾瘖瘂龍雲自から感し眇目痤陋感 応道交す實に是
本朝四十四代 元正天皇の霊龜二年也
聖武天皇の神龜元年大磯の海上に 神光を放つ事十二道漁人驚異して
光を尋て海中に至るに十二神将の霊 像波に泛へり自から流に遡て花水
の隈につく(長各六尺)居民相議して以て此山 に送る今に玉川まて十二神を以て橋に
名つくる蓋自る所を忘れさらしめん かためなり昔逝の神化招さるに自から
至りし霊像の妙用無為而然者歟同二年 幡あり天よりして降る初ハ飄颻として
波雲の飛か如く後にハ謄々として白龍の 舞に似たり猟者怪て射て以てこれに
中つ鑾零て水に入これを鈴川と称し幡 落て地に至るこれを落幡と号す閭里
驚歎して反復してこれを見るに物類 凡に非ず共に議しておもへらく是諸天供
佛の具ならん宜しく霊山に送るべしと 年序推移て蠧損して亡か若し于時
鎌倉の管領源基氏公深く歎惜して 改め造て遺意を存す今現在せる者是
なり又金像の勢至菩薩(相伝て閻浮提金といふ) 長一尺八寸許凡これを扛る事あるに
重障の者にハ像これかために重く 壮士と力堪す軽罪の者にハ像これかため
に軽し弱婦も猶能持す宿佳を得 すして三世を知佛智に依すして業
果を見る至玄至妙凡識の測る所に非す 或ハ彌陀薬師日光月光千手大士
四天王等の像あり並に皆支竺扶桑の 巧手神工造化と妙を比へ天地と化
を同す抑其これを来す者ハ誰そ霊 地佛を感し霊佛類を求む譬ハ玉渕
の驪龍を住しめ衆星の北辰に 拱ふか如くならん而巳

  この縁起についての研究成果を2021年にリリースいたしました。「『相州大住郡日向薬師縁起』仮名交り文縁起について」(『山岳修験』 第67号、日本山岳修験学会、2021)です。詳しくは拙論をお読み頂けると幸いです。翻刻もその拙論に掲載しています。

今回の調査研究の過程で、新しいことがいくつか判明しましたので、以前の解説文は削除して全面的に書き直しました。

 日向山霊山寺の縁起には複数のテキストがあります。

【A】『伊勢原市内社寺鍾銘文集』『神奈川県史』『修験道史料集』収録の宝城坊蔵縁起テクスト
〔仮名交り文、寛文四年(1664)、松嶋雲居和尚〕
【B】『関東古代寺院の研究』(鶴岡静夫)に翻刻されている国立公文書館蔵縁起テクスト前段
〔漢文、貞享五年(1688)、雄峯山全勝 現住州海温泉〕
【C】国立公文書館蔵縁起テクスト後段で『新編相模国風土記稿』にも部分的に引用収録されている縁起テクスト
〔仮名交り文、年代不明、作者不明〕
【D】『相州日向山薬師堂修造勧進帳序』の中で語られる縁起テクスト
〔漢文、年代不明、勧化道者全古〕
【E】『相州日向山略縁記』(萩原家文書)
〔振り仮名付き仮名交り文、宝暦四年(1754)、別当 宝城坊〕

これらの縁起テキストを詳細に分析した結果、もっとも古態を留めているのがここで翻刻をご紹介した【C】であると判断できます。

国立公文書館蔵の『相州大住郡日向薬師縁記(起) 全』に綴じられた前半は漢文の『相州大住郡日向薬師縁記(起)』【B】ですが、後半に【C】の縁起が綴じられていることに気付きました。しかもこの『相州大住郡日向薬師縁記(起) 全』には「編脩地誌備用典籍」の蔵書印が押されていますので、もともと江戸幕府地誌調所の蔵書だったことがわかります。『新編相模国風土記稿』編纂の際の資料です。

薬師如来と行基と温泉のつながりについては、上記拙論、拙著『丹沢・大山・相模の村里と山伏~歴史資料を読みとく』(夢工房、2020)、以下ブログ記事 等で詳しく触れていますので、お読み頂ければと思います。

熊野本宮湯峰温泉つぼ湯

日向山の森から大山山頂を望む

野津田薬師堂の森と薬師池

徳川家康の姪「万姫」と日向薬師のお話

牛山佳幸「中世日本の仏教界と温泉-西大寺流律宗の場合-」『佛教史學研究』第62巻第2号(佛教史學會、2020)
(2023/8/17 城川隆生)
【参考】拙稿「『相州大住郡日向薬師縁起』仮名交り文縁起について」(『山岳修験』 第67号、日本山岳修験学会、2021)
拙著『丹沢・大山・相模の村里と山伏~歴史資料を読みとく』(夢工房、2020)
『普光山畧縁起』(野津田薬師堂縁起)