『北條貞時十三年忌供養記』(元亨三年 1323年)
(円覚寺文書)
「□花梨木卓一對 鮫皮三十枚 青磁鉢六對大小 饒州垸(碗)六 花瓶香爐ニ鉢一對 ・・・・・・・・・(略)・・・・・・・・ 藤(籐カ)四百二十三本 以上二百十七貫百五十文 藥種 檳樃子十四斤卅七兩二分 細辛廿五兩 五加皮廿七兩二分 杜冲(仲)ニ斤廿七兩二分 ・・・・・・・・・ (略) ・・・・・・・・ 人參三斤四十九兩二分 已上代二百五十二貫七百七十三文 爲寺家之沙汰、代替之、 要(?)木採用所々、伊豆國土肥山、地頭土肥二郎左衛門尉、相模國奥三保屋形山、給主合田左衛門三郎入道、鳥屋山 給主本間五郎左衛門尉、各被成遣奉書、 抑料足四千貫内、四百六十余貫者、藥以下代也、千六百貫者、當寺修造料所越前國山本庄去年 元亨ニ 分年貢也、二千貫者、爲當庄今明 同三四 兩年之請料、 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(略)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 木作始、去年 元亨ニ 十一月廿ニ日、天文博士有長進勘文、 大工 新大夫安能、布衣、祿 白綾被物一重 銀劔一 馬一疋 以寺行者、賜之、 此外錢三貫文 狩衣代 錢二十貫文 酒肴料 錢十貫文 引頭分酒肴 自寺家下行之、 立柱 當年 二月十一日 大工 布衣、 祿 被物一重 銀劔一 馬一疋 置鞍、 引頭一人 淨衣立烏帽子、 被物一重 銀劔一 此外 酒肴料 錢ニ十貫文、大工分、錢十貫文、引頭分、自寺家下行之、 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(以下、略)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」 |
丹沢山地が、中世の早い段階から、木材の供給源であった事を記録する有名な史料です。元亨三年(1323年)10月26日、北条得宗家の廟所である円覚寺において、鎌倉幕府九代執権北条貞時の大規模な供養仏事が行われ、約11ヶ月に及ぶ準備の様子、歳出・歳入の詳細、準備品目の詳細、作業日程、担当者の役割分担及び報酬、仏事の役割分担と段取り、布施の詳細、仏事に加わった僧侶集団の詳細、参列者の詳細などが記録されています。 その中で、必要な木材の供給源となる山林として、「土肥山」(現在の静岡県熱海市~神奈川県湯河原町エリア)と並んで、「奥三保」(相模原市緑区津久井町~愛甲郡愛川町エリア)の「屋形山」と「鳥屋山」が上げられています。「屋形山」については場所が特定されていませんが、愛川町田代地区の「館山」周辺を指している可能性も否定できないと思います(※1)。つまり、八菅山の北西エリアとそのすぐ西側に聳える仏果山~経ヶ岳の山林を含むのではないかという推測です。「鳥屋山」は現在の鳥屋奥野地区(早戸川の源流、焼山~姫次~蛭ヶ岳~丹沢山~丹沢三峰~御殿森ノ頭に囲まれたエリア)(※2)の山林と考えられ、鎌倉幕府の末期とはいえ、時の権力者が、大規模な仏事に伴って行う堂舎建築事業に使用する木材の供給地として、このエリアを選んでいたことがわかります。 当時、丹沢山地北東部に育っていたであろう豊かな森に為政者の目が注がれていたことは、各方面から指摘されている事でもあります(※3)。まさに、江戸時代の「丹沢山御林」へと繋がる丹沢の豊かな自然環境を傍証する古い史料だと思います。 この史料の翻刻は以下にあります。 『神奈川県史 資料編2 古代・中世(2)』(神奈川県 1973) 『改訂新編 相州古文書 第二巻』(角川書店 1966) 他 多数。 ※1 愛川町文化財調査報告書第18集『あいかわの地名 -田代地区-』(愛川町教育委員会 1989) なお、八菅修験の『神分諸次第』では、春の峰の第三行所として「館山」を「屋形山」と記している。 ※2 『つくいの地名』(津久井町教育委員会 1994) ※3 盛本昌広『中近世の山野河海と資源管理』(岩田書院 2009)、『津久井城の調査 1996-2001』(津久井町遺跡調査会、津久井町教育委員会 2003) 他 |
(2010/6/11 城川隆生) |
※1追記(2011/11/14) 湯山学『相模武士 四』(戎光祥出版 2011)の中で、湯山氏は「屋形山」を「館山」と断定されています。 |
※1追記(2012/1/11) もっと以前に、湯山学「相模国愛甲郡の荘園」『地方史研究 144』(地方史研究協議会 1976)中で、湯山氏は「屋形山」を「館山」と断定されていました。 |
【参考】『新編相模国風土記稿』巻之五十四 村里部 愛甲郡巻之一「丹澤山」 『天文十五年 神分諸次第』 |