中世の丹沢山地 史料集 index

 『八菅山光勝寺再興勧進帳』(応永二十六年 1419年)
(八菅神社 蔵)

「夫以当山者忝行基菩薩草
創之地天人聖衆之遊化場也
宜哉昔八丈八手之玉幡自都
卒天降臨此山時八本之菅根
忽然出生受之故称八菅寺者
也竊尋建立始行基為一天四
海之護持令造立釈迦阿弥陀
薬師三佛其後数代日副海老名
季貞亦安置大日尊像是則
源家繁盛之基也然以来星
霜年旧照鑒之日新也凡霊
佛霊社以何興廃随時恨哉
今已徒衆貧乏僧坊零落自
然當来然則堂舎軒朽風
拂天井之塵佛前恒闇月挑
常住之燈爰盛誉少有前因
■今務當山之職債見此
(「救」の下に「心」か?)
破壊胸中鬱々感涙漣々
嗚呼不如成否者明慮之知
処也予只励純一之志催緇
素貴賤之方施若乗三寶憐
争不遂彼再興焉和合因縁
有馮縦亦宿縁薄護法之善
神聊加広厚恵令成就弟子
大願此以善利上報四恩下資
三有群生乃至為備天下安全
武運長久御祈祷恐々頓首
敬白仍勧進帳如件

 應永廿六年正月 日勧進沙門敬白
 

   左兵衛督源朝臣(足利持氏花押)」


 この史料は、かつては「八菅山光勝寺再興勧進帳写」とされていましたが、近年の鑑定で写しではなく本物であると認定されています。

 内容からは、当時の八菅山が荒廃していた様と再興にかける勧進僧の意気込みが伝わります。八菅山光勝寺の本尊であった釈迦如来・阿弥陀如来・薬師如来の由来を説き、海老名季貞が大日如来像を安置したこと、これが源家の繁盛を祈願してのこと等が記されています。また、海老名季貞の墓と伝えられる五輪塔も八菅山内にあります。

なお、この勧進帳からは、修験的な要素を読み取ることはできません。宗教的な権威は行基であり、役小角ではありません。15世紀の八菅山は、一山組織 光勝寺が崩壊の危機に瀕し、宗教者の数も少なく修験の勢力が弱かったのでしょうか。文明十八年(1486)に丹沢山麓を訪れた聖護院門跡 道興は東国の熊野系修験(熊野先達)の拠点をこまめに回っていますが、大山寺、日向霊山寺、熊野堂(厚木市旭町)を回ったあとは八菅をパスして武蔵へ向かっています。

(2006/5/28 城川隆生)
【参考】「海老名氏・源氏と八菅山経塚について