中世の丹沢山地 史料集 index

 『新編相模国風土記稿』巻之五十四 村里部 愛甲郡巻之一
「丹澤山」

(天保年間)



「○丹澤山 (太武坐波屋満)

郡の西方にあり、東は郡内七澤・煤ヶ谷・宮ヶ瀬等の山々に續き、西は足柄上郡 南は大住郡、北は津久井縣の山々に接壌し、東西凡三里餘南北四里許に及ぶと云り、山中を八所に區別し

 同法
(度宇菩布)
 汐水
(志保美豆)
 たらいごや
 荒樫尾
(阿良加志遠)
 長尾(奈我遠)
 八瀬尾
(屋世遠)
 大洞
(於保朋良)
 本谷
(保武多爾
  ○此所に栃の喬木あり、十圍に及ぶと云、又石を組立樵夫等休憩の處とす、)

等の字あり、山中喬木蔘鬱として良材に富り、按ずるに、元龜・天正の頃北條氏の命により煤ヶ谷・七澤邊の村々より良材を小田原に運致せし事あり、是皆此山に採しなるべし、關東御打入以來山中すべて御林となり、郡中煤ヶ谷・宮ヶ瀬、大住郡寺山・横野等四村の民に警護の事を命ぜられ、彼村々へ合月俸一口半を賜り、且驛馬歩夫の課役を免除せらる、其他の村民は猥に山に入事を禁ず、寛永元年山中の掟書と云るもの今大住郡横野村の里正蔵す


(曰、丹澤御留山書之事、つか・けやき・もみの木・杉木・かやの木・くりの木・右之御用木御法度之事候間、又藏木成共長木は出申事御法度之儀に候間又は地たう衆成共、きり取被成者、江戸へ急度御申可被上候、爲其仍而如件、寛永元子十月廿五日、源半殿、田所助二郎印 按ずるに、文中藏木は雑木にて、源半は玄蕃の誤なるべし、是里正が先祖の名なり、)

此餘郡中數嶺相連續すれど、丹澤山に比すれば兒孫の如し、故に各村地域の接する所に標出し、爰に贅せず、」



 江戸時代の丹沢のエリアを説明している史料です。『新編相模国風土記稿』は地名のふりがなを万葉仮名で表記しています。江戸時代の人々にとって、「丹沢山」とは「たんざわやま」であり、「八所」のうち現在でも使用されているいくつかの地名からも、中津川水系上流部の谷筋・尾根筋を指していることがわかります。この「山」とは凸部の地形やピークを指しているのではなく「山林」の意味です。

 このように、『風土記稿』のどこを読んでも、「丹沢山」は「丹沢山御林」を指しており、現在の西丹沢・丹沢湖周辺には「丹沢」という地名は出てきません。明治時代になって、大日本帝国陸軍参謀本部陸地測量部が、2万分の1地形図上に「丹沢山」という山名を「三境の峰」「弥陀ヶ原」などと呼ばれていた1567mの峰に命名記載した時から、「丹沢」地名の拡大が始まったと考えられます。

 ここに、柳田國男が『地名の研究』の中で「最初は一地点または一地形に附与した名前を、これを包含している広い区域にも採用して行く風習」と説いた地名拡充性の原則を見ることができます。

※ 本来は川筋・沢筋の地名であった「丹沢」の水系については鈴野藤夫『丹沢釣り風土記』(白山書房 1990)の踏査に基づく解説が参考になります。

(2006/5/28 城川隆生)
【参考】『北條貞時十三年忌供養記』