中世の丹沢山地 史料集 index

[研究ノート](『Open Forum』no.2 放送大学大学院 2006 所収)

丹沢山地と大山
― 地方霊山における山岳宗教者の空間認識 ―

城川 隆生

研究のねらい

 丹沢山地(最高峰:蛭ヶ岳1673m)には、大山寺修験(大山寺)・八菅修験(光勝寺)・日向修験(霊山寺)という修験集団が存在した。他に単独の修行者や小集団もあったはずである。登山コースとして人気の高い丹沢の尾根道は、その多くが数百年の歴史を持つ行者道であった。

 研究対象はこれらの山岳宗教者の入峰修行ルートである。それは、宗教空間・聖域・山岳曼荼羅として丹沢山地を四次元的(三次元空間+神仏の世界)に捉えることであり、複数の行所から構成される山域の宗教的な意味(崇拝対象、祈祷・修行の内容等)を問うことでもある。研究のねらいは地方霊山に展開した宗教思想の一端を探る試みであった。

 また、山は、宗教者が聖性を獲得し里人が宗教者を畏敬するという関係をつなぐメディアであり、根拠であった。山岳宗教思想の研究に数々の教義・儀礼類のテクストが重要なのはもちろんだが、山という立体的なメディアをどう認識していたのかという体感的要素もそれに劣らず重要であると考えられる。

 全国に霊山と呼ばれる山の信仰がある。その中には、縄文文化・弥生稲作文化・仏教・道教といった諸要素が重層的に織り込まれていて、現代人の信仰や観光などの諸活動の中にもそれらを発見することができる。また、山岳宗教者が自然と交流しながら体系化した思想は修験道として現代も複数の教団の中で息づいている。つまり、日本の宗教文化を理解するためには、里人を含めた広義の山岳信仰や修行者によって担われてきた山岳宗教に対する視点が必要不可欠である。


フィールドワークと中世寺社縁起研究

 山岳宗教者の空間認識を考察するためには、祭祀の場所と内容、行場と行の内容、祭祀場所・行場をつなぐルートの解明、寺社縁起・峰中記等のテクスト分析が必要である。

 だが、特に地方霊山において残された史料は少なく、活動の全盛期と考えられる中世についてはなおさらである。そこで、史料研究に加えてフィールドワークを研究方法の柱とした。しかし、丹沢は産業化と都市化の波をもろに受け、また地震・風化等によって山中の道や遺物も姿を変えている。不安を感じながらの研究であったが、最終的には山域全体にわたる宗教空間認識を中世期に遡ってまとめられたと考えている。

 史料については、入峰記録を記した峰中記、寺社の聖域を説明する中世縁起のテクスト分析を中心に行い、それをもとに山中のフィールドワークを繰り返した。

 また、比較研究するために、全国霊山の寺社縁起及び先学の論考を参考にして関東・近畿・東北・北陸の他霊山においてもフィールドワークを行い、山岳宗教者の空間認識を4つの座標軸をもとにモデル化した。他界であり、神の領域であった山の中に古代山林修行者が入り始めて以来、経典のテクストをもとに自然環境と交流を図っていたわけであり、そこには仏教理解に沿った空間認識のある程度の「かたち」が見られると考えられるからである。

 これらのエティックな方法に加えて、聖護院の入峰修行を計四度させて頂いた。研究者として見ればエミックなこの経験は山岳宗教者の感性と実践に基づいて自然地形や行場を観察するということに大変役立った。


『大山縁起』と大山寺修験

 大山(1252m)は相模平野で古代から神聖視されていた山である。丹沢の中では決して高い山ではないが、平野部からは遠近法の錯覚によって最も高く美しく見える。丹沢の古代山岳寺院のほとんどは大山から伸びる尾根筋・谷筋の山腹・山麓や前山(端山)にあったことから、修行者はこの神体山へ修行の場を求めて拠点を作っていったと考えられる。

 その中でも三つの谷(大山・日向・蓑毛)は遥拝・登拝拠点として後世に至るまで特別な聖域であった。そして、中世の大山寺とは、大山川沿いの谷を囲む尾根筋を結界とし、不動堂(現在の阿夫利神社下社)を信仰センターとする一山組織であった。

 大山寺修験はこの一山に所属する修験集団である。しかし、近世初期に政治的な圧力を受けて事実上壊滅し、多くの山伏が山麓の「御師」に転身して門前町を形成、江戸時代の「大山参り」の流行を支えたと言われている。大山寺修験について残された史料は皆無に近く、実態を知ることはもはや不可能と考えられていた。

 ところが、修験的要素の強い『大山縁起』(真名本、中世前期)には山頂(「本宮」)から始まる抖ソウルートが「上人登峰。斗藪三十五日也」という表現とともに記述されていた。この記述は従来は山内聖地の説明と考えられてきたテクストである。これに従って踏査を重ねると、そのルートは大山北尾根〜札掛〜表尾根・塔ノ岳(「祖母山」)〜蛭ヶ岳(「烏瑟嶽」)という近世日向修験の峰入りに近いものと比定することができた。

 問題はその先の行所であった。どこを指しているのか全くわからず、単なる仮説として論をまとめざるをえないと考えていたところ、清瀧寺(明治二年廃寺、愛川町)の『今大山縁起』(寛文五年)が『大山縁起』と同じテクストをもとに周辺を聖域として説明していることに気づいた。清瀧寺は中世期に大山とゆかりがあったという伝承も持っている。

 つまり、仏果山(「石遲草嶽」・「明王嶽」)〜塩川の谷(「両部瀧」「金剛界瀧」「胎蔵瀧」)、経ヶ岳・華厳山(「華厳般若峰」)、経石(「法華方等異岩」)は大山寺修験の重要な行場空間であった。蛭ヶ岳から鳥屋または宮ヶ瀬に下った入峰行者は次に仏果山に登り、山塊の奥に鎮座する不動明王の聖地大山を遥拝してから塩川の谷へ下ったのである。

 さらに、八菅修験三十行所の第五行場として知られていた「塩川滝」以外の滝を発見すべく塩川の谷の荒れた沢をいくつかさかのぼると、果たしてそこには二つの大滝が存在し、「金剛滝」「胎蔵界滝」という地元の伝承地名も伝わっていた。大山寺修験の行場「両部瀧」が目の前に現れた瞬間であった。


丹沢山岳曼荼羅

 丹沢における入峰修行の成立は『大山縁起』の成立期を中世前期とすれば、それを下ることはない。その際、古代山林修行者にとっての聖地は入峰の重要な構成要素になった。その中心はもちろん大山である。また、今回明らかになったように、大山寺修験・八菅修験・日向修験が入峰空間と行場を共有していたということは、中世期には丹沢周辺の修験集団が共有する広域にわたる空間認識が存在していたことになる。

 入峰儀礼は11世紀頃の大峰熊野で成立し、その空間認識が全国に伝えられ、各山域の地形に応じた峰入りが始まったと考えられている。そのうち最も典型的な空間認識は金剛界と胎蔵界の曼荼羅世界であった。

 丹沢もその例に漏れず、大山山頂と塩川の谷を結んだ線を境に標高が高く険しいピークが連続する西側を金剛界・秋の峰、至高の聖地大山を目指す比較的標高が低い東側を胎蔵界・春の峰とする空間認識が入峰儀礼とともに成立し、その広大な入峰空間の出入口が大山と塩川の谷であったと考えることができるのではないだろうか。


    『大山縁起』と大山寺修験の行場空間 (拙著『丹沢の行者道を歩く』白山書房2005より引用)


研究発表と情報提供

 本研究は第26回日本山岳修験学会学術大会(2005年11月)において「地方霊山における行者道踏査の可能性―中世の丹沢と大山寺修験―」として発表し一定の評価を頂くことができた。また、本研究にさらに内容を追加して書き下ろした山岳歴史ガイドブック『丹沢の行者道を歩く』(白山書房)を2005年12月に出版することができた。中世から近世、近世から近代という時代の大きな転換期に、江戸幕府や明治政府の宗教政策によって変質・消滅してしまった広域霊山丹沢山地のいにしえの姿を、現代社会にとって有意義な知見として提供できれば幸いである。

※ 現在、山地全体を指している「丹沢」という地名は近世以前は山地内の狭いエリアを指すものであったが、近世以前の山地全体を指す適切な地名が他にないので本研究では広域地名として「丹沢」を使用した。