『相模国みたけ山奉納歌』(鎌倉時代)
「古の吉野を移す御岳山 黄金の花もさこそ咲くらめ」 |
(前僧正隆弁、『夫木和歌抄』雑部十六神祇) |
『甲斐国志』(文化年間)御岳村蔵王権現社(現在の金桜神社)の条には「按ルニ此ノ夫木集ニ載セテ相模ノ国御岳ト記シタルハ蓋シ誤りナリ彼ノ国ニハ御岳ト称スル地ナシ・・・」などと記されています。 『新編相模国風土記稿』(天保年間)でも、津久井県与瀬村蔵王社(現在の与瀬神社)の項に「按ずるに、【夫木集二】相模国御岳山奉納歌・・・・・・・・・、と詠ぜしは、蓋当社のことなるべし」と記されています。 江戸時代後期の人々にとっても、「相模国みたけ山」がピンとこなかったわけです。つまり、相模平野〜丹沢山地エリアと御岳信仰の結びつきは当時想定外の連想だったのでしょう。しかし、大山を「国みたけ」として信仰した中世の痕跡を丹沢山麓に数多くある御嶽神社から伺うことができます(※1)。 御岳蔵王権現信仰は、甲斐の金峰山や奥多摩の御岳山のように後世まで広域の信仰を集めて盛んだった例もあれば、比較的狭いエリアで鎮守として受け継がれたもの、定着せずに近世期にはわからなくなってしまったもの、と色々な様相があったと考えられます。 いずれにしても、園城寺出身であり鎌倉幕府ととりわけ深い関係にあった隆弁が鎌倉で度々参加した歌会で詠んだであろうこの歌は、沼野嘉彦氏も断定しているように(※2)、大山の歌と考えるのが自然です。 ※1 拙著『丹沢の行者道を歩く』白山書房 2005 ※2 「大山信仰と講社」『日光山と関東の修験道』名著出版 1979 |
(2006/5/28 城川隆生) |
【参考】拙稿「丹沢山麓の中世の修験とその関連史料」『郷土神奈川』第47号(神奈川県立図書館、2009年) ※表題は校正ミスがあって「丹沢山麓の中世の修験とその関連資料」となっています。 |