中世の丹沢山地 史料集 index

 「黒尊佛山方之事」(『大山御師文書』)(文化二年 1805年)


☆当文書は川島敏郎氏(『伊勢原市史』編纂委員、もと県立公文書館、もと県立高校教諭)が発見・翻刻し研究協力のために提供して下さり、それをもとに考察を加え2015年に学会発表をいたしました。詳細は拙稿「丹沢山地・蛭ヶ岳と山岳修行者の空間認識」『山岳修験』第58号(日本山岳修験学会 2016)をご覧下さい

「文化二乙丑年 
 黒尊佛山方之事
八月六日参詣

 尊佛山之事

先掘(ママ)村ノ大クラト申所ニマイルヘシ、是ニテ宿ヲ取泊ヘシ、
ソノ翌日嶽エ登山イタスヘシ、大クラより奥尊佛迄道ノリ壹里廿八町、
又大クラより一リ、登テ観音有、是從馬返シト申也、是迄ハ馬登ル也、
又是從十一二町モ登テ前尊佛有也、是迄ハカヤ野ニテ隋分宜キ道也、
是從少シナン所、又ハスヾ野所モ有ヘシ、是より大木有、木タチ也、

先尊佛嶽ハ奥ニテ、イタツテ足場モハルシ、ガケ也、
此所ニ高サ弐丈五尺程之高キ岩有之也、是ヲ黒尊佛申也、又此下ノ右方ニ壹丈程之高キ岩ナランテ有、
尊佛岩之下ニ長壹尺程之大日尊有之、大日御迎タモウ所ハ此方少シ丑方エ御迎タモウ也、
是從右エ峯傳ニ不動嶽エ参ヘシ、此道方ハ尊佛より不動嶽迄凡弐里也、
此道イタツテナン所也、是從スヾ野々中ヲワケ参ヘシ、
イタツテスヾ野シケキ事ヤブノ事シ、スヾ野高キ事セイ長より弐尺程モ高キ所ヲ通ルヘシ、
其中ニホソキ道モ有、又ハ道トモヲホシキ所ヲワケテスヾ野中ヲ登ヘシ、
尊佛より半道モ参リ瀧口ト申ス所有、此所ニテ南ニ向テ山壹ツ越、向ニ大山石尊峯見エルナリ、
瀧口ト申ス所イタツテ系(ママ)ナル所也、又是從峯傳エニ登リヲリ、イタツテ何ン所、
又是從右之通、スヾ野々中ヲ参ヘシ、或草ヲハケ、道モ無キ所ヲ通ヘシ、

程無不動嶽エ参也、不動嶽ハイタツテ平チ也ル所、近所見廻ス所ニ小シバ之所モ有、
又ハ草フカキ所、或スヾ野々所モ有、イタツテスザマシキ大木有、
又ハマサシク天狗ノ御アソヒ所ト相見エ、九尺四方程、イタツテキレイナル所有之也、
二ケ所程有也、イタツテスコキ所アル也、先不動尊ノ座ス所、左ノ方ニクボミ有、
九重ノ紅葉ノ大木有、此下ニ長壹尺程ノ不動尊護守(ママ)ナサシメタモウ也、
不動尊御迎タモウハ未申方ヲ御迎タモウ也、時ニ年号貞次(ママ)三年三月二八日也、
是文化二年迄凡四百四十三年也、不動嶽ヨリ藥師嶽迄道方壹里半、
不動嶽ヨリ壹町程参ト不動坂ト申坂有、是從モ何ン所也、
右之通スヾ野モ有、又草モハケ、或ハアラシモ二三ケ所モ有リ、
此所トウルヘシ、イタツテ何ン所ナルアラシ有、此アラシニテイタツテケイナル所、所々相ミエルナリ、
此アラシ從西方ニ向、藥師嶽相見エ候所、程トウキ事壹里程ニ相見エ、

スザマシク高キ事也、山黒クロトシテオソロシキ山也、是從段々、此アラチヲヲリ、
又身ユル藥師嶽エ登ルヘシ、程無ク藥師嶽エ参、此嶽ギハイタツテ平成ル所ニテ山廣キ事ハ奥シレズ、
真スコキ事也、是從藥師護守ナサシメタモウ所ハ左方エトホソ道有、
コレヲ参リ南ノ山ハハスレヘ出候所、真藥師如来護守ナサシメタマウ所也、ウシロハ古ボク、
前ハアラシミハラス事、西南方ヲ一目ニ見ハラス事、真ウツクシキケイ有、
藥師御迎タモウ所ハ尊佛ト間ムキニ御迎タモウ也、藥師御迎タモウ所ハ辰巳ノ方ニ御迎タモウ也、
此嶽ニテ遥向ニ尊佛南方ニ相見エル也、是從尊佛エ返ルヘシ、

尊佛從三丁程登レハトウノ峯ト申ス峯有、此所ニ高壹尺五寸程之石トウ有也、
此所ニテ掘村修ケン中行ヲイタシ、三月廿三日ニ祭(ママ)燈護摩修行仕、此峯ニ行場台有、
常ニハヤキステ申ス也、

是從廻下ノ向道也、壹里程廻也、此下向道ニ行者嶽座善石ト申参詣所是有ル也、
是從下向イタシ、本之宿返り泊ル者也、

先一渡ハ参詣イタスヘキ所也、先咄トハ甚ソウイニ有之候間、ヲソルヘシ、ヲソルヘシ、ヲソルヘシ、


    身ジタク之事
一、タチ之マヽニテサン尺テモシメル事
一、テヲイ之事
一、モヽヒキ之事
一、ウラノ有ワラジカケ之事
一、中喰タクサンニモツ事第一
一、アンナイタノム事
一、スイヅヽニテ水ヲモツ事
一、外ニハモツモノ無用也
一、若山際ニ泊、存ヨリ有之候得者□□ヨクカケアイ申し、ソノ存ヨリニテ登ヘキ事也、

文化二乙丑年八月六日 登山仕候、
相模國大住郡大山住人
   佐藤氏藤原朝英
       参詣仕書印之、 」  



 この記録が残された佐藤織部家は大山寺御師脇坊二十四坊の一坊で、慶長の山内大変革以前、つまり中世期は修験であった可能性が高いのですが、「参詣」という表現、そして「先一渡ハ参詣イタスヘキ所也、先咄トハ甚ソウイニ有之候間、ヲソルヘシ、ヲソルヘシ、ヲソルヘシ」という感想、「一、アンナイタノム事」という注意書から垣間見えるのは、大倉(秦野市堀山下)の先達に連れられて猛スピードで抖擻修行を行ってきた一般参詣人の姿です。

 日向修験の「黒尊仏岩」はここでは「黒尊佛山」の「尊佛嶽」「黒尊佛」「尊佛岩」「尊佛」で、「高サ弐丈五尺程之高キ岩」です。そして「尊佛岩之下ニ長壹尺程之大日尊」が「少シ丑方(北北東)エ」向かって祀られています。この岩は、その後も関東大震災で崩落するまで、周辺地域の信仰対象として登拝が盛んに行われていたことで有名です。また、日向修験の「宿」であった「神前ノ平地」は「不動嶽」で、そこに祀られていた「不動尊」は「未申(南西)方」を向き「貞次三年(一三六三)三月二八日」の銘があったそうです。

そして、現在の蛭ヶ岳、つまり日向修験にとっての「釈迦ガ嶽」は「藥師嶽」で、そこに祀られる「藥師」は「尊佛ト間ムキ」で「辰巳(南東)ノ方」に向かっていました。ここがこの「参詣」の最終目的地です。

つまり、すでに19世紀初めには蛭ヶ岳に薬師如来を祀る修行集団が現れ、「尊佛嶽」と「藥師嶽」が真向きに向かい合う尾根筋という空間認識のもとに縦走する修行が大倉を起点に成立していたことになります。

 日向修験にとっての「塔ノ峰」と「弥陀薬師ノ塔」(塔ノ岳)、「黒尊仏岩」(山麓の宗教者は「孫仏岩」「拘留孫仏岩」とも表記)は近世末期になって現れる在俗行者にとっても重要な行場で、また里の村人たちにとっても信仰の対象として登拝が行われていました。その先駆的記録として『黒尊佛山方之事』を位置付けることが出来ます。日向修験と同時同場所で全く違う空間認識を持って抖擻する山岳修行者群が19世紀初めにすでに生まれていたのです。

 この修行コースの成立にどのような集団がかかわったかは特定できませんが、帰路に塔ノ岳山頂「トウノ峯」の「高壹尺五寸程之石トウ」(日向修験「弥陀薬師ノ塔」)を「掘村修ケン中」(堀村修験中=本山修験 城光院、同 城入院、同 圓覚院))の行場として「三月廿三日ニ祭燈護摩修行仕、此峯ニ行場台有、常ニハヤキステ申ス也」と紹介していることに注目します。

おそらく、この「参詣」の「アンナイ」役は、当時の「堀村」(秦野市堀山下大倉周辺)で活動していた本山修験三坊の山伏かまたはそれに関わりある人物だったのではないでしょうか。同じ小田原玉瀧坊霞下であったこれらの三坊が日向修験の入峰儀礼について無知であるとは考えられません。

そのコースに新しい空間認識を意味付けして先達活動を始めたという仮説です。大倉へ下る前に日向修験の行場「役ノ行者」(行者ヶ岳)を「行者嶽座善石ト申参詣所」と表現しているのも注目されるところです。

(2017/8/29 城川隆生)
【参考】 拙稿「丹沢山地・蛭ヶ岳と山岳修行者の空間認識」
『山岳修験』第58号 日本山岳修験学会 2016


峯中記略扣 常蓮坊