中世の丹沢山地 史料集 index

 『八菅山 聖護院准三宮道増の碑伝』(天文二十一年 1552年)
(八菅神社 蔵)

   大峯葛嶺先達熊野三山検校役君末葉八菅山順礼
 唵    天文廿一年 三月廿九日
   天台園城傳法智證正嫡聖護院准三宮道増
  臈三十八 歳四十五

『相州八菅山書上』(文政九年、国立公文書館蔵)↓↑の表記に合わせました(2020/07/26)


 現在、正確な判読が不可能な状態で、『修験集落 八菅山』『厚木市史』等で読み取りの努力がなされて来ましたが、そもそも八菅山内ではどう伝えられてきたのかが重要であると考え以上に掲載いたしました。『相州八菅山書上』(※1)は八菅山が文政九年(1826)に幕府地誌調所に提出した大部の報告書です。『新編相模国風土記稿』の八菅山についての記述はほぼこの書上から引用され編纂されています。従いまして、今までの拙稿中の表記も含めて今後はこのように修正したいと思います。

※1
拙稿「相模の一山寺院と『新編相模国風土記稿』地誌調書上―大山寺と光勝寺―」(『山岳修験』第65号 2020)、同「相模の『国峰』再考―『相州愛甲郡八菅山付属修行所方角道法記』と『相州八菅山書上』―」(『山岳修験』第62号 2018)参照
また、最近、国立公文書館のデジタルアーカイブで無料公開されました(複写代をお支払いして複写をお願いしたのは私なのに・・・・( ;∀;))。
(2020/7/26 城川隆生)

 この碑伝は八菅と聖護院とのつながりを示す最古の史料です。八菅には聖護院門跡道増の御殿跡「御園」という伝承地があり、今でも聖地としてそこには建物等を建てません(愛川町八菅 矢後忠良氏 談)。

この碑伝に記されているように、大峰・葛城入峰修行、熊野三山検校、役小角の行法の後継者、天台宗寺門派の祖円珍(智証大師)の正統後継者、准三宮、そして近衛摂関家出身で小田原北条氏氏綱の後室 近衛殿の兄弟である道増の来山は、八菅修験にとって非常に重要な歴史的事件であり、後々まで権威のよりどころであったことがわかります。

 なお、道増の没年は、『修験道辞典』(東京堂出版 1986)では天文二十一年(1552)または天文二十年(1551)となっていますが、永禄二年(1559)に毛利家と尼子家の紛争調停に、永禄六年(1563)には毛利家と大友家の紛争調停に将軍足利義輝の使者として出向き活動していたこと等、その後の活動を示す史料が数多くあります。

(2006/5/28 城川隆生)
【参考】聖護院
拙稿「丹沢山麓の中世の修験とその関連史料」『郷土神奈川』第47号(神奈川県立図書館、2009年)
※表題は校正ミスがあって「丹沢山麓の中世の修験とその関連資料」となっています。