中世の丹沢山地 史料集 index

 『八菅山 正応の碑伝』(正応四年 1291年)
(八菅神社 蔵)

    秋峰者松田僧正
    先達小野餘流両山四國邊路斗藪余伽三密行人金剛佛子阿闍梨 長喜八度
 唵   正應四年辛卯九月七日
    小野滝山千日籠熊野本宮長床竹重寺別當生年八十一法印権大僧都顯秀初度  以上三人

『相州八菅山書上』(文政九年、国立公文書館蔵)↓↑の表記に合わせました(2020/07/26)




 現在、正確な判読が不可能な状態で、『修験集落 八菅山』『厚木市史』等で読み取りの努力がなされて来ましたが、そもそも八菅山内ではどう伝えられてきたのかが重要であると考え以上に掲載いたしました。『相州八菅山書上』(※1)は八菅山が文政九年(1826)に幕府地誌調所に提出した大部の報告書です。『新編相模国風土記稿』の八菅山についての記述はほぼこの書上から引用され編纂されています。従いまして、今までの拙稿中の表記も含めて今後はこのように修正したいと思います。

※1
拙稿「相模の一山寺院と『新編相模国風土記稿』地誌調書上―大山寺と光勝寺―」(『山岳修験』第65号 2020)、同「相模の『国峰』再考―『相州愛甲郡八菅山付属修行所方角道法記』と『相州八菅山書上』―」(『山岳修験』第62号 2018)参照
また、最近、国立公文書館のデジタルアーカイブで無料公開されました(複写代をお支払いして複写をお願いしたのは私なのに・・・・( ;∀;))。


(2020/7/26 城川隆生)

 全国的に見ても非常に古い紀年銘を持つ巨大な碑伝です。高さ368cmで、最も古い葛川明王院(滋賀県大津市)の391.7cm(元久二年 1204年)に匹敵する古態を示すものと言えます。しかし、この八菅の碑伝のように頭部にニ条線が刻まれるものは、時枝務氏による葛川の碑伝の編年(※1)では15世紀になって登場する型です。考えられることは、東国では板碑の影響を形態上早くから受けていたのでしょうか?

 碑伝の表面の文字をなぞるような陰刻は後世のものと考えられています。右に示したように、現在では、陰刻されていない部分の文字はほとんど読み取り不可能です。そのためか、翻刻された銘文は伝承をもとにしていて、研究者によって少しずつ違いがあります。上に示した(正)(小野)はその部分です。

 内容的には、秋の峰に三人が峰入りした記念碑的なものです。(正)を読めば、「松田僧正」「長喜」「顕秀」の三人となりますが、(正)を読まないと「松田僧先達・・・」となって、「長喜」「顕秀」の他、もう一人が不明となります。

「小野余流」は、長谷川賢二氏(※2)が指摘しているように、「長喜」が真言密教「小野流」の始祖聖宝への信仰を持っていたことを示していると考えられます。そして「両山」は葛城と大峰、「四国辺路」は四国の海岸巡りです。つまり「長喜」は葛城・大峰・四国で抖ソウ修行経験がある真言密教系の行者です。丹沢山地に八度も入峰しているということは、おそらく八菅を拠点とする山伏です。

「顕秀」は熊野本宮からはるばる丹沢山地を訪ねてきた修験者です。(小野)は意味不明ですが、「滝山千日籠」も「両山」「四国辺路」と同じような定型句で熊野那智滝の修行です。このように、中世の碑伝には自分が満行した代表的な修行を肩書きに記します。「顕秀」が『山伏帳』にも名を残す長床衆の一人「長床執行 顕秀」(※3)であるとすると、熊野の81歳の大物老山伏がやって来たということになります。

かつては、長床衆だから本山派(天台系)に違いないという見方(『修験集落八菅山』『厚木市史』など)がありましたが、本山派も当山派も、宗派として成立したのは中世の後半から近世にかけてのことです。当時、熊野三山は園城寺の管轄下にあったわけですが、山伏は拠点とする一山に所属していても遊行性の高い自由な活動をしていて、「~宗 、~派の山伏」と言い切ることは出来ません。

 さて、この秋の峰のコースは今となってはわかりませんが、私は少なくとも後の八菅修験春の峰三十行所ではなく、塔ノ岳・蛭ヶ岳を含む丹沢表尾根・主脈の縦走コースだったろうと推測しています。しかし、81歳という年令がどうも引っかかります。(※4)

※1 時枝務『修験道の考古学的研究』雄山閣 2005
※2 長谷川賢二「十四世紀の阿波における三宝院流熊野長床衆の痕跡とその周辺」『四国中世史研究』 2005
※3 長谷川賢二 前掲論文。なお、『山伏帳巻下』では「衆使」の項に「顕秀 大瀧房法印 執行」、「直任執行」の項に「顕秀 大瀧房法印」、「加入山伏 弘安四辛巳(1281)」の項に「顕秀 大瀧房法印 本」とあります。「大瀧房法印」という肩書と碑伝の「滝山千日籠」という表現は注目に値すると思います。
※4 大正15年生まれの我が父の体力と脚力を見ていると、80歳を超えた人物でも十分可能であると判断するに至りました。

(2006/5/28、8/11※3追記、2010/11/10※4追記 城川隆生)
【参考】拙稿「丹沢山麓の中世の修験とその関連史料」『郷土神奈川』第47号(神奈川県立図書館、2009年)
※表題は校正ミスがあって「丹沢山麓の中世の修験とその関連資料」となっています。