中世の丹沢山地 史料集 index

 『新編相模国風土記稿』巻之五十七 村落部 愛甲郡巻之四
「八菅山 七社権現社 別當光勝寺」

(天保年間)



「・・・・・・・・・・・・・・・・・・(前略)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

山中の修験毎歳二月中旬より山中及近郷の山々三十箇所

 
一番當山中禅定宿、二番角田村の幣山、三番角田・上荻野両村境舘山、四番田代村平山、當所は七宿の内多和宿と云、五番半原・田代ニ村の界鹽川、當所は七宿の内平地宿と云、六番田代村寳珠嶽、七番同村山神、八番上荻野・煤ヶ谷両村境華厳嶽、九番同ニ村の内華厳山、十番煤ヶ谷村華厳山中七宿の内寺の宿、十一番同村佛生谷、十二番同村にて七宿の内越ノ宿、十三番同村不動窟當所は七宿の内兒留園地宿と云、十四番同村五大尊嶽、十五番同村兒ヶ墓、十六番同村金剛童子嶽、十七番同村釋迦嶽、十八番同村阿彌陀、十九番妙法嶽、是より二十八番迄、深山にて村名詳ならず、二十番大日嶽、二十一番不動嶽、二十二番聖天嶽、二十三番涅槃嶽、二十四番金色嶽、二十六番千手嶽、二十七番空鉢嶽、當所は七宿の内にて尾高宿と云、二十八番明星嶽、二十九番大住郡大山寺本宮雨降山、三十番同寺白山不動

の行所にて三十五日の間入峰修行す、故に當山に限て大峯入の行法に及ばず、これ役小角よりの舊例と云

 
此行法弘治三年迄は四十九日なりしと、又秋峯の修行もありしが、永禄三年迄にて中絶す、元和三年寛永八年後祈願を命ぜられし時、再興御礼を献ず、夫より又中絶すとなり、

其餘年中の修法若干あり、」


 八菅修験の行者道を記す史料の中で、山中の具体的な行所位置(村名)を説明しているのは結局『新編相模国風土記稿』のこの部分だけです。八菅に伝わる峰中記・次第書の類は行所名と「ロイ」(口伝)ばかりで位置は記されていません。『風土記稿』の筆者は、各村を回り、村の主だった人物に直接取材しながら文章を仕上げています(※1)。八菅村では、おそらく本山派修験年行事職であった宝喜院か覚養院が対応したのではないでしょうか。

 この記述によると、八菅村「八菅山」=>角田村「幣山」=>角田・上荻野村両村境「館山」=>田代村「平山」=>半原・田代ニ村の界「塩川」=>田代村「宝珠岳」と「山神」=>上荻野村・煤ヶ谷村両村境「華厳岳」と「華厳山」=>煤ヶ谷村「寺の宿」=>以下、煤ヶ谷村となっています。

 これらの行所の中で、「寺の宿」については、『修験集落八菅山』(慶応大学宮家研究室、愛川町1978)は竜洞寺のあった高取山と比定していますが、それは明らかな間違いです。竜洞寺があった場所は煤ヶ谷の曲師宿の近くですし、高取山は飯山村と上荻野村の境になります。「寺の宿」は華厳山=寺鐘のまっすぐな尾根筋周辺を基本に考えるべきです。

 ただし、この行所位置はあくまでも文政・天保年間のものです。八菅修験のように里に近い峰入りの行者道は、他霊山の例から推測しても、自然環境の変化や政治的・経済的要因(戦乱期における宿の砦化、檀家回りの都合、他の宗教者との対立、など)によって何度かのマイナーチェンジがあったとしても不思議はありません。また、「三十行所」のように30という区切りの良い数字で山中の行所をまとめたのも中世後期〜末期のことと思われます。それは、紀伊半島大峰において平安末期に「凡一二〇」あった行所が「七十五靡」にまとめられていった修験道儀礼整備の動向と共通のものと考えられます。

 過去の行者道は「道」と「線」として固定的に見てしまうよりも、行者道が設定された古代〜中世期における「エリア」「面」の宗教的解読が必要不可欠であり、そのエリア内での変動はあって当然と考えるべきでしょう。

※1 八菅村への廻村調査は文政九年。(白井哲哉『日本近世地誌編纂史研究』思文閣出版 2004)

(2006/6/2 城川隆生)