中世の丹沢山地 史料集 index

 『役行者本記』(室町時代頃)


「 小角系譜第二

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(前略)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

五十一歳
同(天武帝)十三年甲申。發芳野而一日夜往相之八菅山。限五七日修薬師仏秘法。天帝下来指柱天蓋。天人奏舞。其後一日夜彫作百體薬師。百體地蔵。百體不動之石像。開眼供養。可住有縁而投虚空。各佛任縁而従空中赴。後一日夜歸于芳野。

五十五歳
持統帝二年戌子。入定至金色世界遇文殊師利薩■
(「つちへん」に「垂」)。小角曰。自涅槃會未見容顔。薩■(前に同じ)言。済度何地乎。小角曰。在日東。汝不容憶知前生。付囑此法。是即未翻三身壽量無邊経也。封大峰之経嶽了。此時談話良久矣。

五十七歳
同四年庚寅三月。赴出羽國羽黒。経歴近峰數員。三日之頃彫作大日。観音。不動。■
(「あしへん」に「多」)吉■(「衣へん」に「尼」)天。大黒天五尊之像皆安之。各放光談話。■吉■(前に同じ)の一天不至菩提之談。小角弾呵欲斫斷之。彼天走而至於假峰。小角笑云。汝有漏天。不至度群生。我嘆汝無力。五十餘日。一日歸于芳野。

六十六歳
文武帝三年己亥五月。為葛城之神被讒奏。蒙罪伊豆大島居此三年。晝守禁夜通天木。走湯。箱根。雨降。日向。八菅。江島。日金。富士山等。毎朝曉時歸島。行水上虚空電光猶如不及。間暇之手遊作不動等五大尊。可住有縁之地浮波上放遺。止天水下。毎夜放光照小角之身上。神又託奏。翌庚子十月賜殺。小角拜而不畜者穢身也
。我身既仙。我心仙而受刀。刀段段壊而不損身。小角取刀甜之。滴而猶如■(「食へん」に「唐」)汁。是静慮波羅蜜力也。殺者歸洛而奏之。

六十八歳
同五年正月。被免小角之罪。王使赴伊豆。・・・・・(後略)・・・・・」


 役小角のはじめての本格的伝記『役行者本記』には、役小角の修行地として、丹沢山地周辺の地名が多く登場しています。「八菅」、「日向」、「雨降(大山)」、「江島(江ノ島)」、「箱根」、「走湯(熱海)」、「日金(十国峠)」、「富士山」。これらの記述は、役小角の伝承を持つ各地の修験集団の存在を背景にしていると考えられています。その中でも、「八菅」は役小角がはじめて訪れた東国の地として描かれているのが印象的です。こうしたことから、丹沢周辺の修験者がこの『役行者本記』の編集にかかわったのではと推測することもできます。

 なお、現在発見されている役行者像の中で最古の像(平安時代後期)は東国にあります。山梨県甲府市七覚の円楽寺です。役行者伝承の生成には甲斐〜相模の修験者の活動が重要な役割を果たしてきたと考えられます。

 この史料は日本大蔵経編纂会編『修験道章疏』第三巻(国書刊行会 2000)、鈴木学術財団編『日本大蔵経』第96巻(鈴木学術財団 1977)に翻刻されています。

(2006/5/28 城川隆生)